防波堤を溶かす炭酸


「馬鹿なの?」

 なんやかんや丸め込んで、真夏の外界へ連れ出した私に言い放ったりっちゃんの一言目がこれだった。ごめんごめんと何回も謝るけれど、その回数だけ「馬鹿なの?」と言われている気がする。だって、せっかくの夏休みで私もレッスンはないしりっちゃんも仕事もレッスンもない。一日くらい夏らしいことをしようと思っても罰は当たらないはずだ。…りっちゃんの機嫌は頗る悪いけれど。

「声楽科って暇なの?」
「…仕事というものがない分、りっちゃんたちよりは」
「馬鹿なの?」
「ああもうごめんってば!」

 半分眠った状態のりっちゃんを連れ出し、電車に揺られ数十分、着いた頃にはようやくなんとか目を覚ましたらしいりっちゃんは、目の前に広がる海を見て「うげぇ」とでも言いたそうな、何とも言えない顔をした。

「普通科の友達とは予定合わないし、声楽科の友達とはレッスンの兼ね合いもあってもっと合わないんだよ」
「それって単にが友達少ないだけじゃないの」
「う……」
「ところで兄者いたりしないよね」
「そことは場所が違うから大丈夫だよ」

 わざわざ益々りっちゃんの起源を損ねるようなことは流石の私もしない。そもそも私が海に行こうと思ったのも、その零くんが海の家がなんたらかんたら言っていたからではあるが。ここはもっと、山ほどの海水浴客なんかのいない割と静かな場所だ。近所の家族連れはちらほらいたりするが、多分零くんたちが行っているような賑わいはない。多分、だからまだそういう場所を選ぶよりはましだ。どの道どこへ連れ出しても昼間は機嫌が悪いのだろうし。

「暑い、ほんと最悪だよ…」
「何か冷たいもの買ってくるから、ほら、そこの日陰で待ってて」
「座っても砂が暑いんだけど」
「はい!レジャーシート!三枚くらい重ねたらましでしょ」
ってそういう準備はいいよね」

 私が取り出したレジャーシート三枚を受け取ると、大人しく指定した日陰へ向かってよろよろと歩き出した。後ろ姿を見ていると今にも砂に足が取られそうだ。
 時々こうして二人で出かけないと、りっちゃんなんてすぐにどこかへ行ってしまいそうだ。物理的にではなく、気持ちの距離の面で。何度か、校門前で出待ちされているのも見かけたことがある。雑誌に載ったりしている所も、校内のステージも観たりしたことがある。その度に幼馴染のりっちゃんがどんどん離れて行ってしまうような気がする。なんだか、縄張りの確認行動みたいだ。今の所、彼女ができたなんて噂もないし、女の子の影も見えない。気が付けば寝てる、気が付けば仕事してる、そんな感じで。ただ、昔ほど一緒にいるわけじゃないから、普段どんな人たちがりっちゃんを取り巻いているかも知らない。昔は私だけが知ってたりっちゃんを知ってる人が、他にもいるかも知れない。そう思うと、心臓がちくりと痛い。

「お待たせ」
「遅い……溶けそう……」
「ただのソーダとメロンソーダどっちがいい?」
「なんでどっちも炭酸なの」
「目が覚めるかなって」
「今はそういうの求めてないんだけど」

 まあいいや、と言って結局メロンソーダを選んだ。私もただのソーダの蓋を開ける。どんな悪態をつかれても、それが心地良いって病気だろうか。りっちゃんの隣に座って、ソーダを飲み下す。もやもやしたものも一緒に飲み込んでしまえたら、きっともうちょっとすっきりするのに。

「……なに?」
「や、暑いなって」
「分かっていながら連れて来たの誰なわけ」
「じゃあ海入る?」
「着替えもないのに」
「そっか」
「そう」

 そう言ってまた一口。このペットボトル一本もすぐになくなってしまいそうだ。そうしたら次はどうしよう。もうちょっとだけここにいるために、何で繋ぎとめておこう。多分、来たばかりなのにまた動くのは、ってすぐに帰るという選択肢はなさそうだけど、延々文句と不満を垂れていそうなので、策を講じるしかない。

「さっきからなに、ジロジロ見て」
「そ、そんなに見てたかな…」
「見てた。なに、メロンソーダ欲しいの」
「へ」

 それなら言いなよ、と言いながらペットボトルを差し出してくる。いや、これはちょっと、かなり。

「どうも…」

 受け取る私もどうなんだ。炭酸とはもっと別の、何かとても刺激的な味がした。…ような気がした。