行き詰まっている。今度、うちの事務所が展覧会を開くというのに、私は行き詰まっている。「の写真もいくつか出すから早めに私に通すように」とさんから言われたものの、撮っても撮っても駄目だ。これじゃない、あれじゃない、その繰り返しで前に全く進まない。いつもそうだ、肝心な時に上手くいかない。そろそろさんからのプレッシャーも強くなって来るだろうし、うちの他のスタッフはもう最終調整に入っている人もいる。うちでは一番新人の私が一番に仕上げなければならないはずなのに、一枚も満足する写真が撮れないのだ。
 それでも、仕事は断れない。事務所を通して来た仕事、個人的に受けている友人のライブ写真、それらをこなしつつ、合間にあちこち外へ出てはカメラを構える。
事務所の近所の公園の真ん中で、今日も駄目だ、そう思った時、携帯が鳴る。画面には“九条天”の名前。一瞬真っ赤になって、でもすぐに青褪めて慌てて着信に出る。

「は、はい…」
『九条だけど。今日オフなんでしょ』
「はあ、なんでそんなこと…」
『うちの事務所まで車回してくれる』
「へ」
『僕もオフなんだ。ちょっと付き合ってくれるよね、結構に貸しがあるはずなんだけど』

 有無を言わさないその言葉に、詰まりながらも「は、はい」と返事をする。一方的な通話が終了し、横暴だなあ、と呟いた。まあいい、どうせ今日も駄目だ。それに、彼に貸しがあるのは確かである。これまで何度も私の危機に手を差し伸べてもらった。それら全てを思い出して、けれど恥ずかしくなって両手で顔を覆う。いやいや、回想している場合ではない。彼に呼び出されたのだ、すぐに向かわなければ。カメラをしまい、すぐそこの事務所に戻る。事務所で難しい顔をしてうんうん唸っているさんに車を借りると声をかけ、事務所を出る。何度もさんの仕事の時に運転手をしているから、八乙女事務所の場所は分かる。何度も通った道だけれど、一人で向かうのは初めてでなんだか不思議な気分だ。
 それにしても、あまり深く考えなかったけれど彼の用事とは何だろうか。貴重な休みに私を呼び出すなんて、さほど重要なことではないのだろうが、捲し立てるような彼の口調に急いでいることは分かった。こういう時に限って信号に何度も引っ掛かりながら、八乙女事務所に着くと、既に彼は玄関のすぐ内側にいるのが車の中からでも見えた。彼も私に気付くと、眼鏡をかけて外に出て来る。私も車を降りてお待たせしました、と言えば「意外と早かったね」と、こちらこそ意外な言葉をもらってしまった。助手席のドアを開ければ目をぱちくりさせながら、

「別にマネージャーみたいなことしなくていいよ」

 そう言って私の頭をくしゃりと撫でた。そんなこと、生まれてこの方一度もされたことがなくて、一瞬固まった。どうリアクションすればいいのだろうか、リアクションしなくていいのだろうか。何か意味があるのか、特に意味もない行為なのか。深読みなんてしなくていいんだよね、と自分でも触れられた頭のてっぺんを触ってみる。

「何してんの」
「え、あ、いや…」
「早く行くよ」
「あっ、はい」

 慌てて運転席に戻ると、彼は携帯の画面を私に見せた。それは、私がSNSで発信している写真だ。なぜ私のSNSが彼に確認されているのか、また青褪める。

「なんでそれ…」
「ここ、行きたいんだよね」
「や、そうじゃなくてですね」
「この写真を見てから行きたかったんだけど、早く行かないと枯れるでしょ」

 先週行ったコスモス畑の写真をまじまじと見つめながら、何でもないことのように言う。いや、だからそうではなく、なぜ私なんかのSNSを確認しているのだろうか。大した写真も載せていないどころか、ほとんどが外食した時の食べ物の写真しかないというのに。あとは、時々受けている友人のライブの写真くらいで、彼の興味を引くような話題も持ち合わせてなんていない。そんな混乱する私なんて気にする素振りも見せずに「早く車出してよ」と催促までする。
 あのコスモス畑なら、場所くらい聞かれれば教えるのに。今日わざわざ私に車を出させる意味なんてないのに。休日に彼と会っているという事実すらまだ嘘のようだ。

「…って」
「は、はい」

 交差点で信号に引っ掛かりまた停まると、沈黙の中、彼の方から話を切り出した。小さな音でラジオをかけているくらいで息の詰まりそうな車内に、ほんの少しだけ酸素が入り込んだ気がした。ちらりと助手席を見れば、彼はぼんやりと片肘をついて外を眺めている。

「高校出てすぐ、さんの事務所に入ったんだって」
「……そう、ですね」
「頭悪いわけじゃなかったんでしょ」
「どうでしょう…うちはみんな、頭良かったので私は劣っていたと思いますけど…」
「あー…そうじゃなくて……」

 信号が青に変わる。アクセルを踏むのとほぼ同時に、彼らしかぬ低く苛立った声を出した。撮影中、何度かメンバー内で意見を言い合っている所は見たことがあるけれど、そういう時の声とは違う、もっと個人的な苛立ちだ。カメラをすればするほど、そういう見極めができるようになって、いいのやら悪いのやら。とりあえずトップアイドルを事故に遭わせるわけにもいかないので、私は運転に集中する。不機嫌そうな顔が視界の隅に入り込んだけれど、言及もできず私はまた無言に戻る。
 ちょうど、その時ラジオからうっすらとかかって来たのは、最近さんが関わり始めたアイドルグループの曲だった。確か、その内の二人が高校生で、さん情報によると私と出身校は同じだとかなんだとか。面識なんてないから全く分からないが。さんにはもっと情報アンテナを張れと言われるが、どうも好きな分野にしか目が行かないのはフォトグラファーとしては駄目駄目だ。そういう初歩的なことが駄目だから“こう”なのだろうか。
 彼はそれきり黙ってしまった。何か私に聞きたかったのだろうが、それを推測することは流石にできない。私も気になりつつ、私から突っ込むのもなんだか違う気がして彼を視界の端から消す。それなのに、また彼は口を開いた。

「まどろっこしいのが嫌いだから単刀直入に聞くけど」
「なんでしょう」
「なんでさんの養子になったの」
「本当に単刀直入ですね」
「……ごめん、話したくなかったら、」
「私が、親の思う子どもになれなかったからです」

 タイミングが良いのか悪いのか、また赤信号に捕まってしまう。ここの交差点は信号が変わるまで長い。一旦エンジンを切って彼の方を見ると、訊ねた彼の方が驚いたような、複雑そうな、何とも表現しがたい顔をしていた。既にさんから私のことなんて聞いたかと思っていたが、違ったらしい。
 話したくない訳ではない。隠すようなことでも、別にない。各所でさんは私を「私の娘だ」と紹介してくれて、その度に好奇の目で見られたことは一度や二度ではない。けれど、好奇心で以って見られることなんて別に今に始まったことではなかった。中学でも、高校でもそうだった。いや、もっと前、小学生の時から。あらゆることに期待されていた長女の私は、あらゆることを縛られていた。成績、習い事、友人関係まで。それが普通だと思っていた。けれど高校生になって、それが窮屈になってだんだん親の意向に沿った道を歩けなくなってしまった。その時初めて、周りの目を気にした。私は普通じゃなかった、と気付いてしまった。だから、噂好きな人たちに何かを言われようと気にしなかったし、仕方ないと諦めている。
 けれど、彼は何でそんなにも傷付いたような顔をしているのだろう。私は何も気にしていないというのに。

「親に捨てられた?」
「見方によってはそうかも知れませんね」

 でも代わりにやりたいことをやれています―――そう返したのに、なんで笑っていられるの、と怒られてしまった。

「私の方が親を捨てたとも言えます」
「…それはないでしょ、さすがに」

 信号が変わる、エンジンをかける、車はまた動き出す。目的地まであと十分。ため息交じりの彼の声は、私を慰めているつもりなのだろうか。鼓膜の奥にいつまでも残る。笑い飛ばせるような雰囲気なんかではないのに、同じ「それはないでしょ」でも、私は彼に笑い飛ばして欲しかったのかも知れない。今更少し窓を開ければ、張り詰めた空気が少し流れた気がした。それでも彼は、やっぱり気まずそうにしていた。取り消しのきかない言葉の処理を、私は誤ったのだとようやく気付いた。











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(2017/08/22)