仕事中以外の起きている間、ずっと考えてしまう人がいる。今日は仕事だろうか、どこで仕事だろうか、どんな仕事だろうか―――連絡の取りようのない相手のことを考えてしまう。いや、連絡を取ることならできないことはない。ただそれを私用で使うのは憚られるだけで、彼に直接繋がる手立ては私の手のひらの上にある。アドレス帳を開いて、名前を探して、メール作成ボタンを押そうとして、いつもそこでやめる。最近はさんの下につかない、つまりTRIGGERに関わらない仕事が多かったため、仕事場で彼と遭遇しなくなって久しい。
 ほんの少し気にかけてもらっただけの相手に、どうも私は特別な感情で以って見てしまっているらしい。いや、それならなお、仕事が被らない方がいいのだろうが、遭遇しなければ遭遇しないで気になって仕方ない。テレビでも、ラジオでも、大通りのビジョンでも見かけるけれど、私が会いたいのは生身の彼なのだ。九条天―――声に出さずにその名前と姿を思い描き、ため息を一つついた。

ちゃん、このジャケ写よくできてるじゃない」
「本当ですか?」
「コンテストは出してるの?」
「出して…るんですけどね……」
「まあ、最初はそんなもんだよ」

 事務所の先輩が、私がジャケット写真を担当したCDを手に取る。最近ようやく私が主軸となって動く仕事を任されるようになって来たのだが、このCDがこれまでで一番大きな仕事となった。これから売り出して行くらしいインディーズレーベルのアーティストだ。そういや、さんはデビューしたての頃のTRIGGERのこともよく知っているらしい。彼らと一緒に仕事をするようになったことこそ最近だが、八乙女さんとは昔から知り合いらしく、あそこに所属しているアーティストとは何度も仕事をしていると聞いた。
 私は元々熱心なファンという訳でもなかったし、その頃の彼を知らない。知りたいな、と思ってもタイムマシンがあるわけでもない。どんなだったの、と聞ける間柄では、当然ない。別に、画面の中の彼を知りたいわけではないけれど、知らないことがあるんだ、と思うと何かもやっとする。

ちゃんはまだまだこれからの子だからねえ。さんの下で働いたら間違いないよ」
「そのさんと最近一緒してないんですけどね」
「依頼多過ぎて私一人じゃ捌き切れないんだっての!今後できる仕事はどんどんに振ってくからな!」

 噂をすればなんとやら、うちのトップが仕事先から帰って来たようだ。息を切らして入って来ると、自分のデスクの上に荷物をどかりと置いた。その物音よりも、たった今さんから言われた言葉に顔が引きつった。

「い、いきなり…!」
「遅いくらいだ馬鹿!」
さん、心配過ぎてちゃんと離れて仕事したくなかったんですよねー」
「違うっての!」

 先輩がからかうと、一層大声で反論する。叫びながらも、大量の書類の中からまた新しく分厚い企画書を取り出すと、私に押し付けて来た。その企画書の頭の文字が目に飛び込んできた瞬間、息が止まった。

「今度、久しぶりにそいつらの現場にも連れてくからな。アシスタントだけど、何かあったら自分が、くらいの気持ちでいるように」

 不謹慎なのは分かっている。けれど、嬉しい。やっと彼と仕事ができるのだ。企画書を握り締め過ぎて、紙がくしゃりと鳴る。いつぶりだろう。気持ちだけで言えばもう半年くらい会っていないような気分だ。実際そんなことはないのだろうが。
 まだ仕事を選べるような状態ではない。どの仕事も同じように100%で臨まなければならない。失敗しないように、相手に迷惑をかけないように。それを承知の上で、それでもなお思ってしまう。こればかりは頑張らなくては、と。それと共に緩む頬を企画書でそっと隠した。






 何度も入ったことのあるスタジオなのに、妙にそわそわした。そわそわと言うのか、緊張と言うのか。それなのに、さんは私に荷物を全て任せると、「ちょっと行く所あるから待ってて」とどこかへ消えてしまった。放り出された私は、スタジオの前で荷物番をするばかり。次々に入って行くスタッフさんに挨拶をしながら、さんが戻って来るのを縮こまりながら待った。もう慣れたと思っていたスタジオの雰囲気に気圧されて、都会のど真ん中で迷子になっているようだ。場違いなのではないかとどんどん隅に寄って行っていると、「あれ、さんとこの子じゃないか?」と声をかけられる。…と言えば一人しかいないだろう。びくびくしながら振り返ると、十さんと九条天がいた。なんの心の準備もできていない内に遭遇してしまい、「あっ、お、おはようございます!」とぎこちなく声は上擦る。待ち望んだ人を前にして、何も言葉が出て来ない。今日はお願いしますとか、またご一緒できて嬉しいですとか、活躍されていることは存じ上げておりますだとか、何でもいいのに、社交辞令の一つも出て来ず、視線を右へ左へと彷徨わせる。そんな私を見て彼はくすりと笑った。

「相変わらずだね」
「あ、あいかわらず、とは…」
「まだそんなに緊張して、ちゃんと仕事できるの?」
「天!またそんな言い方して…」
「冗談だよ」

 それさえ嘘か本当か分からない。一気に変な汗をかいた。冗談のつもりでも、私へのプレッシャーになるには十分な威力を持っている。

、仕事忙しい?」
「さ、最近、増えまして…」
「そう。よかったね」
「はい」
「早く僕らの仕事できるようになりなよ」

 ぽん、と肩に手を置かれて思わず一歩後ずさる。「ひぃ…!」と変な叫び声まで上げてしまった。ぽかんとする二人を見て、今度は青褪める。
 そんなつもりではなかった。ただ、あまりに驚いて訳の分からないリアクションをしてしまっただけだ。嫌だったわけでもない。弁解しなければ、気を悪くさせてしまったかも知れない、早く、なんとか。

「が……っ、がんばります…!」

 精一杯その一言を絞り出すと、やや間があって彼が顔を背けて肩を震わせる。いつかのように、私が初めて彼と二人で話した時のように。それを思い出して、またどきどきして来た。
さっきのような澄ました顔ではなくて、テレビや雑誌で見る顔でもなくて、彼の本当の顔だ。今目の前にいるのは、ずっとずっと見たかった、会いたかった彼なのだ。青褪めたはずの顔が熱を持ち始める。仕事で一緒にならない間に、心の奥底にしまってしまおうとも思った気持ち。けれど、どうにも本人を前にしたらもう自分を騙すことはできない。現に、彼のことを考えなかった日なんてないのに、どうやって気持ちをなかったことにできるというのだろう。彼にとっては単なる社交辞令で、誰にでも言っているような言葉だったとしても、私を揺さぶるには十分過ぎたのだ。決して仕事を疎かにはしなかったけれど、仕事中でさえ時たま「今頃誰が彼の写真を撮っているのだろう」なんて考えたこともある。
 こんなにも、他人に自分の感情を揺さぶられるなんて経験は初めてだった。だから余計、自分で自分の心を持て余してしまう。捌き切れないまま今日が来てしまった。ちゃんとスタジオに入れば仕事はする。ちゃんと切り替える。けれど、まだその一歩外では、誤魔化すことさえできないなんて。

「今度、のとこの事務所が個展開くんでしょ」
「よ、よくご存知で…!」
「君はちゃんと僕らの仕事の情報入れてる?」
さんが関わった分に、関しては…一応…」
「ふぅん…」
「ご、ごめんなさい…!」
「ごめんさん、天は君に興味を持っ、痛っ!?天、足、足!」
「なに?」

 何かを言いかけた十さんの言葉は途中で途切れる。何やら言い合いを始めた二人をただあたふたしながら見ていることしかできず、ますます早くさんに戻って来て欲しいと願うばかりだ。私には二人を諫めるだけの力はないのだから。困惑していると、ようやくその後ろにさんの姿が見えた。つかつかと歩いて来るなり、「喧しい」と一喝する。

「入口の前で何してんの、邪魔だ邪魔。もこれくらい収めろ」
「無理ですって…!」

 やっと助け舟が来た。私はその場に置いていた荷物を抱え直しながら、さんの言葉に反論する。「行くぞ!」と言われ、二人への挨拶もそこそこにさんの後に続いてスタジオに入る。入ろうとした。背中を向けた瞬間、肩を掴まれて思わぬ方向へ体重が移動する。けれど間一髪、後ろに倒れそうになって、けれどなぜか倒れなかった。荷物ごと私を受け止めたのは、私の肩を引いた九条天だ。

「な、なに、あぶな…!」
、今日はよろしくね」

 そう私の耳元で言うと、今度はとん、と背中を押す。一歩、スタジオの中へ入る。
耳かかった声と吐息、触れそうで触れなかった唇、かけられた言葉、それらが一瞬で脳内を駆け巡って、たちまち顔が真っ赤になる。耳を押さえながら振り返ってみても、そんな私を見てやっぱり彼は小さく笑っているだけ。
 あんなことをされて、意識するなという方が無理だ。冗談のつもりか、からかっているのか、どちらにしろどうしようもなくタチが悪い。思わせぶりだと思うのは自意識過剰だろうか。そうではないと思いたい。間違いなく、彼は分かってやっている。けれど、そんな扱いをされても心のどこかで嬉しいなんてほんの少しでも思ってしまう私は、手遅れなほど毒されいるなと思った。











(2017/07/08)