付き合って半年ほどになる彼のことを、私はまだよく知らない。クリスマスの時期はまだ付き合っていなかった。年が明けて付き合い始めて、最初のイベントのバレンタインは無難にチョコレートを渡した。けれど、次の大きなイベントといえば彼の誕生日だ。現在、日本の最前線を走るアイドルグループの一つ、TRIGGERのセンター九条天ともなれば、生半可なもので喜ばせられるとは思えない。半年、と言っても私も彼も仕事で忙しく、世間一般の恋人たちほど会っていたわけでもない。だから、まだよく知らないのだ。どんなものが好きなのか、何をもらうと嬉しいのか、“オフ”のことに関しては。八乙女さんに聞けば、昨年もファンから莫大な数のプレゼントが送られて来たそうだ。小さなものから大きなものまで、一番大きな金額を聞いて目玉が飛び出しそうになった。
 悩みに悩んで、もういよいよ日がない。久しぶりに私の部屋に来た彼に、私はストレートに聞くことにした。どうせ嗅ぎ回った所で彼にはバレていそうだし、既に今日は挙動不審だ。自分で作った夕食の味もよく分からなかった。二人で並んで食器を片付けて落ち着いた後、同じように並んで適当なテレビを見ながら、私は口を開いた。

「あ、あのね」
「なに?」
「もうすぐ誕生日でしょ、何、欲しい?」

 私がとんでもなく、切迫した雰囲気だったのだろう。私の質問を聞いた彼は肩を震わせた。私は大真面目なのに、逆にそれが面白いらしい。私から顔を逸らしてまで笑いをこらえている。いっそ笑ってくれればいいのに、恥ずかしくなって私も顔を反対に向けた。

「そんなこと、今になって聞くかなって思って。今何日だと思ってる?」
「う……」
らしいと言えばらしいけど」
「そっそれで何が欲しいの!」
「なんで怒るの…」

 居た堪れない。でも今日聞かなければ、きっと当日何も用意できない。ご飯作るとか、お菓子作るとか、そんなの時々やっていることだし、やっぱり形の残るものを渡したい。けれど彼の欲しいものなんて全く想像つかないのだ。あれが欲しいこれが欲しいなんてことを言っているのを聞いたこともない。甘いものが好きかどうか確認せずに渡したバレンタインのチョコレートは目の前で食べてくれた…から、甘いものは苦手ではないらしい。いや、だから食べ物ではなく。

「重いものでもいい?」
「たっ…体力に自信ならある!これでも体力勝負の仕事してる…」
「そういう重いじゃなくて」

 ようやく笑いの山を越えると、私の方を見てくすりと笑った。ああもう、こんなキレイに笑う人、女性でもそうそういないのにずるい。

「合鍵、欲しいんだけど」












 付き合うまでは、結構いろいろあったと思う。私が仕事で大失敗して、カメラアシスタントの仕事を休んでいたら叱られて、また、復帰した。彼が叱ってくれなかったらもう一度カメラを手に取ることはなかったかも知れない。そういう意味でも感謝している。
 けれど、彼について知っていることは少ない。もしかすると、ファンの子たちの方が情報として持っているものは多いのではないか。私は彼らのデビューしたての頃も知らない訳だ。過去作品を買ったりしても、当然そこから見えてくるのはTRIGGERの九条天なわけで、生身の、オフの彼が見えてくることはない。完璧だな、と思った。多分、私が知っている精一杯の九条天と言えば、私を怒鳴ったり叱ったりした彼なのではないだろうか。けれどそれだって、メンバーにはしていることだ。私一人ではない。

(いやいや…でも欲を出しちゃだめ……)

 焦っても仕方ない。半年とはいえ、実際その半分くらいではないか、実質的な内容は。知らないことと言えばいいのか、何と言えばいいのか、彼が隠しているな、というのを感じる時がある。私が彼の家に行くなんてことはもちろんないのだけれど、彼が私の部屋に来ることはしばしばあって、けれど先日「しばらく連絡取れない、の所にも行けない」と連絡が来た。それがどうも、不自然だった。秘密にしたいことなんて誰にだってあるし、単に仕事だったのかも知れない。考え過ぎか、と思っても、あの含むような言い方がどうしても引っ掛かってしまった。

(合鍵か……)

 渡したくない訳じゃない。ただ、その発想がなかっただけで。多分、作るのも駄目なわけではないと思う。今私が住んでいるのは事務所の入っているビルだ。元々マンションのフロアの一つを事務所として使っているわけだが、その上に私をはじめ何人かのうちのスタッフも入居している。もちろん私が家賃全額を払えるわけもないので、養子ということでほぼさんに出してもらっているわけだが。…一応、さんに訊ねた方が良いだろうか。いや、でも突然合鍵作るなんて言い出したら怪しまれるだろうか。今のところ隠し通しているつもりなのだが、勘の良い人だから気付いていたりして―――いや、でも気付いていたら何か注意喚起するなり、私をTRIGGERの仕事から外すなりするはずだ。

「……だめだ、答え出ない…」

 合鍵が欲しいと言われて、即答できない臆病な自分にため息をついた。












 最近、アシスタントだけでなく私がメインとなる仕事を任せてもらえるようになって来た。八乙女事務所の中でも駆け出しの人たちのアーティスト写真を取ったり、プロモーション用の写真を撮ったり、着実にカメラマンとしての仕事は増えている。そこでいよいよというか、とうとうというか、もう一歩上の仕事が来た。さんに書類を渡されて思わず顔が引きつった。

「コンサートグッズ用の…写真……」
も見たことあるでしょ、ブロマイドやらクリアファイルやら、会場でしか買えないの」
「はあ…」
「パンフレット写真は私がやることになってるから、そっちの担当ね」

 こんな大事な時期に言い出せない。合鍵作りたいんですけど、とは言い出せない。私は戸籍上はさんの娘になっているけれど、一緒に住んでいるわけでもなければ家族、といった雰囲気でもない。完全に師匠と弟子だ。だからプライベートで一緒に過ごすことなんてほぼなく、出勤した日の休憩時間にでも聞くしかないのだが、その休憩時間にこれだ。

「なに、そのなんか言いたそうな顔」
「いや…なんでもないです…」
「あんたこの間もそれだっただろうが、何かあるならはっきり言いなさい」

 …訊くなら、チャンスは今しかないかも知れない。

「合鍵を…」
「は?」
「私の借りてる部屋の合鍵、作りたいんですが…」
「………、そんなこと?」
「はい」
「……んなこと!そんな深刻そうな顔で言うな!好きに作れ!ただ男連れ込むなら身辺気を付けろっていうかまだ作ってなかったのかよ仕事は疎かにするな以上解散!」

 聞いたことのない早口でそう捲し立てると、さんは「一服して来るわ!」と怒って出て行ってしまった。バタン、と閉まったドアの向こうから「心配して損したっつの!」と荒れた声が聞こえる。心配、させたのか。ぽかんとしていると、他のスタッフからも「さん、ちゃんのこと大事にしてるからねえ…」としみじみ言われてしまった。
 ああまだ、心配してくれる人がいたんだ。初めて大失敗をしてから、本当はずっとびくびくしながら仕事をしていた。失敗しないように、無難にと。もう庇ってくれる人も背中を押してくれる人も誰もいないんじゃないかと思って。そうじゃなかった。仕事のことだけでなく、さんの最後のあれは、私のプライベートを気にしてのことだ。

(……うん?)

 “身辺に気を付けろ”―――やっぱり、さんには気付かれている気がする。これもいつかちゃんと言わないとまた叱られるのだろうな、と思い、企画書に視線を落とした。初めて、私が主軸になって動く仕事だ。一部とはいえ、彼のいるTRIGGERに関わる仕事。彼を撮ると言った約束が、やっと果たせるかも知れない。

 その日の晩、早速私は合鍵を作りに行った。作ってもらっている間に、雑貨屋を覗いてラッピングやバースデーカードを選ぶ。結局彼からのリクエスト通りのものしか用意できない。望まれているからそれでいいのだろうけど、やっぱりそれだけでは味気ない。ケーキでも焼くか、彼の好物を八乙女さんか十さんから聞き出して作るか。いや、でも食べ物なんて山ほどもらうかも知れない。そもそも、彼の誕生日って、誕生日まで、いや、誕生日だからこそ仕事が入っているのではないだろうか。よくテレビで芸能人が「本日お誕生日なんですよね!」とMCに振られているのを見る気がする。
 その時、ちょうど考えていた彼からメールが届く。プライベート用の携帯の方だ。

 ―――9日、仕事が終わり次第行く。何時になるかは分からない。

 悪い予感って、なんでこうも当たるんだろうか。はなから期待していたわけでもないけれど、いざ言われるとやっぱりなんとなくショックだ。私だってその日の昼間は仕事で、というか、元々に私たちが会うのは昼間以外だ。

(こういう時……)

 こういう時、合鍵が要るんだろうな。私がもし寝落ちしていても、彼が入って来られるように。だから欲しいと言ったのかも知れない、彼も。もっと早くに渡しておけばよかったと後悔する。言われるまで気付かなかった私も馬鹿だ。まだ作ってなかったのかよ、という今日のさんの叫び声がリフレインする。あれもそういう意味だったのか、と今更分かる。
 でももう仕方ない。今日作った合鍵を渡して、それを喜んでもらえたら、今はそれが最善ではないか。それに、初めて持つ“同じ物”になるのだ。目立ったもので同じ物なんて持てないから、これくらいでちょうど良い。ばれないくらいがちょうど良いのだ。…じゃあ、ばれないところなら同じ物をもう一つくらい持っていていいだろうか。
 雑貨屋を出て、私は別のお店へ足を向けた。












、あんた今日残業せずに帰りなさいよ」
「は?」
「帰りな」
「は、はあ…」

 とうとう七月九日。今日こんなことを言われてしまえば、もうさんにはばれているも同然だ。仕事に支障が出ていないから何も言われないのだろうか。麻疹程度に思われているのかも知れないけれど。もしくは、考えたくないけど彼に他の女の人がいれば私は単にその内の一人なだけだし―――いやいや、悪いこと考えるのはやめよう。彼はそんな人ではない。もし本当にそんなことをしていたら、もっと早くにさんがストップをかけているはずだ。一応は親にあたるのだから。
 言われた通り、今日は十七時ぴったりに退勤した。事務所の二つ上のフロアに私の部屋はある。同じフロアにうちのスタッフもいるものだから、万が一彼がこのマンションに出入りしていることが抜かれてもうちのスタッフの所に来ていた、で通せる……気がする。うちの事務所と八乙女事務所は仕事もかなりの数しているのだし、と気休め程度に言い聞かせる。
今更だが、ものすごくリスキーな恋愛をしていると思う。安全なレールから外れたことのなかった私には、はらはらの連続だ。

(何時になるかは分からないって……)

 思えば、メンバーに祝ってもらうということも有り得るわけで。メンバーと飲みに(彼は未成年だからお酒は飲まないけど)行くことも可能性としてはないわけではない。そういう意味でも、“何時になるか分からない”だったのだろう。終電逃すだろうか、いや、そもそも最早電車使えるような人間じゃないな。
 ぼんやり考えながら、とりあえず冷蔵庫を開ける。作るだけ作っておこう。遅くなって要らないようなら明日の朝食べればいい。冷凍すれば日にちは持つ。そう思いながらいつもよりだいぶ品数の多い夕食を作って、ローテーブルに並べる。別に、頼まれたわけじゃない。私が作りたかっただけだ。そもそも、期待なんてされていないだろうし、こういうことをしないように敢えてあんなメールを送って来たのかも知れない。
 だめだ、せっかく彼の誕生日なのに嫌なことばかり考えてしまう。いつもより多い夕食を食べたら、途端に眠気が襲って来た。考え過ぎたせいだろうか。後片付けも面倒だ。眠い、寝てはだめ、眠い、寝たい、寝てはだめ―――けれど結局、私は睡魔に負けた。












 夢を見ていた。なんの夢だっただろうか。彼が出て来たことは覚えている気がする。ああ、なんだろう、まだ夢の中だろうか、彼の声が聞こえる。


「……うーん……」
「なに、こんなところで寝てるの」
「あれ…天くん、なんで…」
「なんでも何も…」

 目をこすると、アイシャドウが手の甲についてしまった。まずい、メイクも落としていなかったか。まだ半分寝ている頭で現状を整理する。ローテーブルには、片づけてない夕食のお皿。目の前には、走って来たと思しき彼。そこで、ようやく時計を見る。

「たん……っ、いった…っ!」
「ちょっと、何してるの本当に」

 立ち上がろうと思ったら、ローテーブルで膝をぶつけた。かなり痛い。なんでもない、と言って、よろめきながら本棚の奥からひとつの包みを取り出す。彼が先日所望した品だ。本当に何の捻りもないけれど。直前になって躊躇っていると、いつの間にか後ろにいた彼に「ちょっと」と至近距離で言われる。

「せっかく走って来た恋人に労いの言葉もなし?」
「こい……っ」
「違う?」
「ちが、わないですね…」

 こういうのは未だに慣れない。わざわざ口出して言われると余計に恥ずかしくて、そのたびにやめてくれというものの一向にやめる気配がない。最近はもう諦めかけているけれど、やはり反応せずにはいられないのだ。
 少し不機嫌な様子を見せた彼の方を振り返って、手のひらサイズの小さな包みを差し出す。

「あの、誕生日おめでとう」
「ありがとう」
「来てくれて、嬉しいです…」
「大分遅くなったけどね。、一人であんなに食べたの?」
「う…天くんの分もあるから…冷蔵庫に…」
「まあいいけど」

 適当な返事をすると、私が施した簡素なラッピングを解いた。彼にとってメインはこっちらしい。サイズからして大体想像はしていたのだろうが、それを手のひらに出してみると、満足げに笑って見せた。欲しいと言われた、この部屋の合鍵だ。本当にこんなものでよかったのだろうか、とずっと思っていたけれど、今の彼の表情を見てようやく安心できた。これでよかったんだ。

らしいよね、本当に言ったものを用意するなんて」
「だ、だって欲しいって…!」
「そりゃあ、欲しかったよ。今日だってさんにマスターキーで開けてもらったんだから」
「へ!?」
「バレてないとでも思ってた?」
「え、え、あの、えっ!?」
「ま、そんなことはどうでもいいか」

 問題発言というか、聞き逃せない発言があった気がする。けれど、私が問い詰める隙もなく、彼は合鍵を握り締めたまま私を強く抱き寄せる。不慣れな私は固まるばかりで、行き場のない手が空を掻く。こういう時、どうすればいいのだろうか。彼の背中に手を回すべきだろうか。でも、彼に触れるなんてあまりに緊張する。久し振りに抱き締められているというだけでキャパシティをオーバーしそうなのに、自分からアクションなんて起こせない。カチンコチンになっていると、やがて彼が耳元で小さく笑い始めた。吐息がかかってくすぐったいやら、とんでもなく恥ずかしいやら。抵抗も反論もできず、まるで魚のように口をぱくぱくするだけ。

、本当に面白いよね」
「お、おも、おもしろ…!?」
「うん、最高」

 顔を覗き込んで来る彼の眼は優しい。泣きそうな私の頬を掬うように包むと、本当に一瞬、触れるだけのキスをした。

「限界でしょ、
「……はい…」

 林檎のように真っ赤になった私の顔を、どう思っているのだろう。やっぱり面白いと思っているのだろうか。慣れることのない私に内心呆れているだろうか。触れられている頬が、どんどん熱を帯びて行く。クーラーだってつけているのに暑くて仕方ない。全部彼のせいだ、全部、全部。
 いつの間にかポケットにしまったらしい合鍵を取り出して、また嬉しそうに彼は笑う。ところで、と鍵につけているキーホルダーにようやく触れた。

「これなに?」
「うさぎ…だけど……」
「なんで?」
「なんで…?かわいかったから…?」
「…あ、そ」
「わ、私のにもつけてて…!あの、そのですね…!」
「……あー…なんとなく言いたいことは分かった」
「え、えっ?」

 最後の最後に会話がかみ合っていないような気がするけれど、キーホルダーも含めて大事にしてくれるそうなので、とりあえず、よかったのだと思う。そしてこの合鍵が、もう少し私たちの会える時間を増やしてくれるようにと願った。











(2017/07/07)