私と彼―――九条天の出会いは仕事場だった。カメラアシスタントとして先輩について行ったスタジオでの撮影で挨拶をしたのが最初だ。よくTRIGGERの、いや、八乙女事務所に所属するアーティストと仕事をしているうちの事務所の代表のさんは、元々有名なフォトグラファーだった。さんがドロップというデザイン事務所を立ち上げたばかりの頃、私はドロップのカメラアシスタントになった。
 そろそろも撮るか、と言われて連れて行かれたスタジオにいたのがTRIGGERだ。次に出るCDのブックレットにMV撮影裏側のブックレットをつけるらしく、それを担当したのがさんだったのである。その時はとりあえず練習ということで、さんが撮る横からアシスタントをしつつ、カメラを構えてみる、といった様子だった。けれど、緊張しっぱなしでカメラも構えられないままでいると、休憩中にさんがこっそり耳打ちしてきた。

「九条天にカメラ向けてみな。すごいから」
「え、でも休憩中じゃ…」
「いいから」
「は、はあ……」

 失礼じゃないのか―――そう思いつつ、先輩に言われた通りカメラを向ければ。

「あ……」
「分かった?」

 レンズを覗けば、向こう側にいる九条天と目が合った。さん曰く、どれだけ不意打ちを狙って撮ろうと思っても無理なのだそうだ。隙がないんだよねぇ、と言ってため息をついて見せるさんは面白くなさそうだ。なら逆に行けると思ったんだけど、と続ける。構えたカメラを下ろすと、まだ九条天はこっちを見て笑っていた。その時シャッターを切った写真を、私はまだ持っている。私の記憶の中に留めておくには勿体ない画だった。












 その日、撮影が終わるとさんはわざわざ私を三人に引き合わせた。これからちょいちょいスタジオに連れて来るから、と言って。肘で突かれて、慌てて名刺を取り出す。これまでも名刺を渡したことは何度もあったけれど、こんなにも緊張したのは初めてだった。私がこれまでアシスタントでついて行った撮影には、こんな有名人はいなかったのだ。フランクに三人と話しているさんを見て、改めてすごい人だったのだと実感する。特別ファンというわけではないけれど、彼らのその名前も歌も聞いたことがないはずがない。ミーハー心を抑えて平静を装った。

といいます、これからお願いします」
「ああ、さんとうとう事務所立ち上げたんですよね……?」

 私の苗字にいち早く反応したのが九条天だった。新しい先輩の名刺と見比べて首を傾げる。『ドロップ』代表、『ドロップ』カメラアシスタント、それを見て他の二人も名刺と私たちを交互に見た。

「弟子っていうか、養子にしたの、この子。親子ってより歳離れた姉妹みたいなもんだけどね。いずれあんたたちのライブカメラマンとしても働いてもらうつもりだから」
「はっ?!さん!?」
「あ、じゃあこのシングルの打ち上げぜひお二人で来て下さいよ。いいよな、楽、天」
「マネージャーに確認してからだろ」
「じゃあ連絡待ってるわ」

 かくして、お互い仕事用の携帯とはいえ、連絡先を知ったのであった。とはいえ、連絡は全てお互い事務所を通してだったため、個人で連絡を取り合うなんてことはなかったのだが。その打ち上げの件にしても、さんが向こうのマネージャーとやり取りしていたようだ。その結果、結局打ち上げに参加することにはなってしまった。あの場で何の仕事もしていない私が。だから最初は拒否したのに、挨拶回りも兼ねていると言われて拒否できなくなってしまった。確かに、顔と名前を覚えてもらうことは大切だけれども、この小さなデザイン事務所では打ち上げなんて大層なものはこれまでなかったし、いきなりあんな有名グループの打ち上げに参加するなんて図々しすぎやしないか。
 そう思いながらも参加した打ち上げ。だが、アルコールなんて普段全く飲まない私だ。すぐにあの独特のにおいにやられてしまった。仕事だこれも仕事だと自分に言い聞かせてはみたが、お酒のにおいと煙草のにおいが混ざって吐き気さえして来た。お手洗いに、と言ってこっそり抜けて、廊下にしゃがみ込むと大きく息を吐き出す。もう何人、誰に挨拶をして名刺を渡して回ったか分からない。かなり気疲れをした。

「大丈夫なの?」
「え……」

 私に続いて出て来たのは、本日の主役であるはずのTRIGGERの九条天だった。一瞬、何を聞かれたのか分からず首を傾げる。

さんとこのアシスタントの子でしょ」
「子、て歳でもないんですけど…」
「そんなことどうでもいいよ」

 気分悪いの、と言って身を屈めて私の顔を覗き込む。この人は平然としているけれど慣れているのだろうか。確か、九条天って未成年だったはずだ。それにしてもキレイな顔だなあ。多分、人を撮る方のフォトグラファーをしていれば、並んででも撮りたくなるほどいい素材。思わず、徐に両手を上げると、カメラを構える手をしていた。

「……なに、それ?」
「あ…ああ、いや、すみません、撮りたくなって」
「僕が?」
「この間、一度シャッターを切ってから九条さんが忘れられないんです」
「はは、なにそれ」

 あ、笑った。メディアに向けた顔じゃない、これは本物の顔だ。アシスタントとしてさんについて行く内に、私はそういうものも見透かせるようになっていた。作った顔、そうでない顔、本心か嘘か、表情の僅かな揺れが分かる。元々、人の顔色を窺って生きて来てはいたけれど、カメラを手にするようになってから益々だ。
 九条天は、そのまま私の隣に同じようにしゃがみ込んだ。いいのだろうか、こんな所にいて。

「口説き文句みたい」
「え?……あっ!そ、そんなんじゃなくて!そんなつもりじゃ…!」

 慌てて否定するけれど、彼は肩を揺らして笑うだけ。
 ああ、そんな顔もするんだ。そんな顔を本当は撮りたいな。あの、カメラを向けた瞬間見せる澄ました顔や、メディアに向けたアイドルとしての顔じゃなくて、オフの、個人を。多分、そういう感情が私の恋愛のスイッチを押したんだと思う。その打ち上げ以来、仕事をしていない時は気付けば彼のことを考えてしまっていた。あの、ほんの数分のやり取りが私の頭に焼き付いて離れなくなってしまった。現像して、形にしたい。いつまでも持っていたい。
 けれど同時に分かっていた。彼は世界の違う人で、私たちフォトグラファーはスタッフの一人でしかない。彼らを支えて押し上げて行く側の人間。表に出ることのない裏側の人間なのだと。きっと、元々彼はああいう人間で、あの時、気分悪そうにしていたのが私でなくても同じように声をかけたのだろう。だから私は特別じゃない、そう自分に言い聞かせた。これは仕事、もう一回そう呟いて、飲み込んだ。












 あの打ち上げから数週間、今度こそ初めての大仕事が舞い込んで来た。

「ライブで、ですか…」
、元々ライブカメラマンしてたでしょ」
「で、でも友達のバンドのライブ写真を撮ってたくらいで…!」
「あんたがSNSで発信してた写真をずっと見てた私が言うんだから大丈夫」
「えっ!?」
「でなけりゃ、途方に暮れてる死にそうな小娘拾ったりなんかしないっての」

 うちは代々医者の家系で、長女の私も医者に、と期待されていた。けれどそれに反して医者の道を選ばなかった。卒業式に、親は来なかった。高校卒業と同時に帰る家も行き先も失くして、制服のままどこかの歩道橋の上でぼうっとしていたら、声をかけて来たのがこのさんだったという訳だ。高校生の頃からカメラを手にしていた私は、彼女が有名なフォトグラファーだということくらいよく知っていた。写真集も持っているし、好きだと思った広告やポスターは大抵彼女が撮っていた。いわゆる、ファンだった。
 そんなさんに拾ってもらった私が、アシスタントになり二年、とうとう大きな仕事を任されてしまった。

「本来ライブカメラマンは私の専門じゃないんだけどさあ…」
「じゃあなんで…他の人に頼めば…」
「もちろん連れてくっての。うち総動員だわ。少数精鋭だってのに」
「は、はあ…」
「八乙女事務所からの指名だから断れなかったんだっての。癪だけどずいぶん世話になってるからなあ…」

 さんと八乙女事務所の社長とは、昔から馬が合わないらしい。それでもなんだかんだ提携しているということは、やはりそれだけ向こうもさんの仕事ぶりを認めてくれているということなのだろう。さんも有名なフォトグラファー、八乙女事務所も大きな事務所だ。利害の一致ってこういうことか…と目の前のさんを見て思う。高校を出てすぐに社会に飛び込んだ私には、時々恐ろしく思うことさえある。

「あんた、TRIGGERの連絡先携帯に入ってるね?」
「あっ、は、はい」
「ちゃんと挨拶メール入れときな」
「いいんですか」
「いいって何が。挨拶は大事って教えただろ。あ、八乙女の社長とマネージャーにはいい、私がしといたから」
「はあ……」

 そこはどういう基準なのだろうか。むしろ、アーティストのマネージャーに挨拶する方が大切なのでは、と思いながら、まだその辺の線引きはよく分かっていないので、とりあえずさんの言うとおりにする。
 ただの業務連絡のようなものなのに、また緊張した。同じ文面では失礼かと思い、少しずつ変えて三人に。九条さんにはあの打ち上げでのお礼も打とうと思ったが、もしメールもマネージャーを通して届いていたらと思うとぞっとしないので、その文章を消した。
それぞれ十回くらい読み直しただろうか。けれど忙しい彼らのことだ、予想はしていたが一週間経っても返事はなかった。












 さんの事務所に入ってからも、休日や仕事終わりであれば、友人のバンドのライブカメラマンは続けていた。だから、ライブに対応したカメラだって持っているし、全くの素人という訳ではない。けれど、如何せん規模が違う。こんな、何千人、いや万は入っているであろうアリーナでカメラを持つなんて経験は当たり前だがない。緊張して仕方がない。私以外にももちろんライブカメラマンはいる。けれど、もしかして自分の撮った写真が今日のライブDVDのブックレットにでも載ったりしたら、と思うと冷汗が止まらない。当然、クレジットにも私の名前が入るのだ。責任の重さが違う。

、大丈夫なの」
「へぇっ!?」
「あ、大丈夫じゃないやつだこれ」
さんから声かけてやってくれって言われたのに、なにその反応」
「天がいきなり名前呼ぶからだろ」
二人じゃややこしい」
「そうじゃなくて、お前絶対年下だぞ」

 これがとどめか、と思った。さんも、こんな所で気を回してくれなくていいのに、少しだけ恨んだ。マックス値まで上がっていた緊張がメーターを振り切る。本番前の本人たちを前にしたら息すら止まりそうだ。
 いや、それより本番前にスタッフの中でも下っ端の私を気にかけている暇なんてないはずだ。彼らは彼らで本番前の打ち合わせだとか精神統一だとか、なんか、とにかくあるはずだ。私なんかよりずっと緊張感がなければならないはずの人たち。私と呑気にしゃべっている場合じゃない。

「言ったよね、。僕を撮りたいって」
「い…いまし、た……」
「今日撮り放題だよ」
「天、その言い方…」
「その代わり、中途半端なのはごめんだから。ちゃんといい仕事してよね」

 そう言い放つと、私に背を向けて戻って行った。じっとその背中を見ている私がショックを受けたのかと勘違いして、二人が何かフォローの言葉をかけてくれていたが、それも半分くらいしか入って来ないくらい、彼の言葉は刺さった。いい意味で、起爆剤になったのだと思う。変な緊張は、責任に押しつぶされそうな緊張はどこかへ行ってしまった。
 私の撮るライブ写真を好きだと言ってくれる人がいる、期待してくれている人がいる。私は飽くまでアーティストの輝く瞬間を切り取っているだけだけれど、その一瞬を永遠に残すことで喜んでくれる人がいるなら。

「がんばります…」
「え?」
「私、がんばります」

 けれど、DVDを見て予習はしていたつもりだけれど、想像を超える彼らのステージに圧倒された。シャッターを切っても切っても足りない。どれだけ撮っても足りない。何が、と言われても説明できないけれど、言うならばきっと私のスキルだ。彼らを撮るのは、私には早過ぎる。先輩たちにできることが、私にはできない。
 本番中なのに涙が出て来た。いろんな感情が混ざった涙だ。自分の無力さも、ステージに感情を揺さぶられたことも、せっかく声をかけてもらえたのに、その分の仕事をできなかった情けなさも、それからほんの少し、やっぱり私の手の届かない人なんだと実感したこと。それでもシャッターだけは切った。滲むレンズの向こうで、三人が輝いている。与えてもらった仕事をふいにしてはいけない。
 本番が終わると、私はその場を飛び出していた。職場で支給されている携帯が鳴っても出られなかった。一人でずっと泣いていたかった。メールで大丈夫です、とさんに返信しても鳴り続ける携帯。ああもう、今だけは放っておいてよ―――そう思いながら電源ごと切ってやろうと思ったその時、突如後ろから首根っこを捕まれた。

「ぅ゛え゛っ」
「君、馬鹿なの!?」

 さんかと思えば、違った。私を怒鳴りつけた声は、さっきまであの光り輝くステージの上にいた人物だ。そのまま立たせたかと思えば、後ろから片腕を回して首を絞められた。これ、本気のやつだ、

さんが“がいない”って必死に探し回ってるんだけど!」
「く、くるし…っ」
「何回電話かけたと思ってる!?」
「は、……」

 彼は自分の携帯の画面を開くと、発信履歴を私に見せた。そこには、“”の名前がずらりと並んでいる。私の携帯の着信履歴も“九条天”で埋め尽くされていた。それを見て、一旦引っ込んだ涙がまた溢れて来た。
ただのいちスタッフなのに。何度も仕事で関わった訳じゃないのに。まして、個人的なやり取りなんてただの一度もしたことないのに、なんで。悔しくて悔しくて、苦しくて苦しくて、どうしようもなくて、気持ちのやり場もなくて、どうすればいいか分からなくて、言葉も出ずに涙だけがぼろぼろとこぼれた。
 自分は特別なんかじゃないのだと、ただ新人スタッフだから気にかけてくれただけだと、自分に言い聞かせていた言葉が遠ざかって行く。ぷつんと、細い糸が切れた。よく知っているわけでもないこの人に、私は恋をしているのだ。











(2017/07/07)