遊びたい盛りの大学生の中で、二宮くんは異色な人間だった。喋る相手がいないわけではないが、誰ともつるもうとしない。いつも一人でいるところしか見たことがない。私も喋ったことなら一回くらいあるが、覚えられていなさそうだ。そんな接点なんてほとんどない二宮くんに、「付き合ってくれ」と言われた時は、「どこへ?」と反射で、けれど大真面目に返してしまったくらいだ。そこに至るまで、私は二宮くんと一度しか言葉を交わしたことがなかった。













 私は社交的な人間ではなくて、講義もいつも隅で聞いているような人間だ。だからと言って友人がいない訳でもないのだが、積極的にサークルに参加して行くような性格でもない。そんな私の貴重な友人の一人は、隣に立つのに気が引けるような美人である。学部が違うためなかなか鉢合わせしないのだが、そんな彼女を偶然見掛け、先日借りた資料を返そうと声をかけようとした。のぞ、まで言った所で声を止める。誰かと話し込んでいる。また今度にするか、と踵を返すと、逆に「!」と引き止められてしまった。カツカツとヒールを鳴らして望ちゃんが近付いて来る。

「なに逃げようとしているのよ」
「逃げたわけじゃ……誰かと話しているみたいだったから」
「ただの二宮くんよ。気にしなくていいのに」
「ただのって……」

 いやいや、それならば余計気にする。直接話したことはないが、望ちゃんから聞くに二宮くんも望ちゃんと同じボーダー隊員なのだと言う。ただの一般人の私には実感がなく、遠い世界でのような話だが、それというのも彼女らがこの街を守ってくれているお陰である。平和すぎて、時々四年前のことも忘れてしまいそうになるほど。
 何か用があったんでしょ、と気を利かせてくれた望ちゃんに、持っていた鞄の中からファイルを取り出す。

「この間借りてたやつ、ありがとう」
「いーえ。私こそいつもにお世話になってるしね。あ、そうだ二宮くん!」

 さっきまで話していた彼を振り返り、望ちゃんが手招きをする。何となしにそれを眺めていたのだが、無表情の二宮くんは望ちゃんに誘導されるがままにこちらへやって来た。望ちゃんが通ったのとほぼ同じ場所を辿って。二人が目の前に立つと、私の庶民感がどうしようもなかった。望ちゃんが美人なのは有名なことだけれど、二宮くんだってそうだ。結構、同じ学部の女の子たちが噂しているのを聞いたことがある。生憎、二宮くん本人がどうでもいいらしく相手にしていないが。とにもかくにも、月とスッポン状態の私は、二人を前にして同い年なのに緊張した。別に私は、二宮くんには用事はないし、今が初対面なのだ。多分、この表情が二宮くんのデフォルトなのだとは思うが、それでも少し肩に力が入る。

「…なんだ」
「この子、ちゃん。二宮くんと同じ学部だから知ってると思うけど」
「ああ」
「え!?」
「この子、学部内にあんまり友達いないみたいだから仲良くしてやってよ」
「ちょっ…、望ちゃん!」

 なぜいきなりそんな話になるのか。二宮くんが私を知っていたことも、それはもうもちろん驚きだが、どう考えても私と仲良くするような人種の人間ではない。望ちゃんならともかく、私のような平凡を絵に描いたような人間がお世話になることなんてありやしないはずだ。私を置いて話を進めた望ちゃんに、私は冷や汗が止まらない。じろりと二宮くんに見下ろされて、血の気が引くようだった。「ど、どうも…」としか言えない私を二宮くんはやっぱりじっと見て、それから望ちゃんに「機会があったらな」と言ったのだった。
 そして二宮くんは去って行き、私と望ちゃんが残される。声が聞こえない程度には離れた所で、私はようやく望ちゃんに抗議した。

「なんてこと言うの…!?」
「あら、だってのコミュニティが狭いのは事実でしょ」
「広げたいとも言ってない…しかも二宮くん…」
「でもあれで彼、結構乗り気よ。嫌だったらきっぱり“ごめんだ”って言うはずだもの。気に入られたわね、きっと」
「絶対ない、ないから……」

 青ざめているであろう顔を覆う。そんな私とは裏腹に望ちゃんはとても楽しそうだ。
私はこの大学四年間、平穏に過ごせればそれで良かった。ずば抜けた成績なんて期待していないし、毎日真面目に通って、試験もパスして、就職先もちゃんと決まって卒業できればそれで。スリルも劇的な変化も望んではいない。
 とはいえ、ああやって望ちゃんを通して一度挨拶したくらいで二宮くんが本当に積極的にこっちに関わって来るとは思えない。そうだ、良く考えてみればそうなのだ。良く考えなくてもそうだ。あれだけ可愛い女の子たちに言い寄られてもばっさり切っているのだから、私を真面目に相手するはずがない。そう思うと、随分気が楽になった。望ちゃんの言う“気に入られた”も、残念だが“そんな気がした”で終わるのが見えている。

「まあ、何かあったら言ってちょうだい。報告待ってるわ」
「何もないと思うけど……」
「ある、に賭けておくわ」
「何を?」
「ランチ一回分かしら」
「……いいけど」






 その賭けに、まさか負けるとは思ってもみなかった。あれから数日、いつものように隅の目立たない席で講義を受けようとしていると、隣からふっと影が落ちて来た。誰かと思い顔を上げると、先日と全く変わらない表情で私を見下ろす二宮くんがいた。思わず、「私何かしましたっけ」と言いそうになる。そんな言葉が口をついて出て来そうな顔をしていたのだ。やや、前回より威圧感が増しているような気がする。しかし、いくら待てども彼は口を開かないので、消えそうな声で「こ、こんにちは…」とだけ言う。そんな私の小さな挨拶は無視し、「隣空いてるか」などと言う。疑問形のはずなのに、是の返答しか求められていないような言い方だ。こくこくと何度も首を縦に振ると、私の横に本当に座った。

「あ、あの……他も席たくさん空いてるけど……」
「邪魔か」
「いや、邪魔ってわけでは……」
「じゃあいいだろう」

 私はこれから一時間、私はどんな気持ちで講義を受ければいいのだろう。まず、講義の内容は耳に入って来るのだろうか。二宮くんがあまり人とつるまないのは皆が知っているので、私たちの席の周囲は避けられているかのように空席が多い。この講義を受けている人間の視線が痛かった。何かひそひそと噂されているような気がする。しかも、絶対ありもしない事実をあれこれ言われているに違いない。今すぐ否定したい、何もないと否定したい。噂にできるような面白いネタはここにはないのだと今すぐ大声で叫びたい。
 けれど当然そんなことができるはずなく、私はテキストとルーズリーフを開け、平常心平常心と自分に言い聞かせる。その時、やたら二宮くんの方からカチカチカチカチという音がした。貧乏ゆすりだろうか、なんて失礼なことを考えながら横目で彼を盗み見ると、シャーペンをひたすらノックしている。…もしや。

「…二宮くん、シャー芯ない、とか…?」
「…ああ」
「何本か、あげよっか?」
「すまない」

 ペンケースから呼びのシャー芯を取り出して震えかけの手で渡す。そこから数本取り出し、シャーペンに新しい芯を入れる所までをじっと見ていた。なんとも言えない不思議な気分だった。あの二宮くんが私の隣に座っていて、シャーペンの芯が切れて私の芯を受け取るだなんて。望ちゃんがいなければ有り得ないはずの現実だった。
 何拍も遅れて、二宮くんでもこういうことってあるのだな、と思った。まさか、芯が出ないなんて。新しい芯を入れてノックをすればもう一度出て来たようなので、シャーペンが壊れた訳ではなさそうだ。もし壊れていたら、芯ではなくシャーペンごと私は貸すことになっていたかも知れない。
 助かった、と言って返されたシャー芯の小さなケース。今更だが、芯の濃さはHBで良かっただろうか、なんて心配をした。普段使っているのが違う濃さでも、生憎ここにあるのはHBなので他に選択肢はないのだが。受け取ったまま、二宮くんの横顔を見る。

「なんだ」
「あ、い、いや、なんでもないです…」

「な、なに」
「付き合っている相手はいるのか」
「ふあっ!?」

 思わず変な声が出る。待て待て待て、今の流れでなぜそんな話になるのか。これが二宮くんでなければさほど驚くようなことでもなかったかも知れないが、直接話すのはこれが初めてだ。しかもそんな、人の恋愛事情に全く興味のなさそうな彼が、沈黙を避けるためとはいえ、そんな話題を選ぶなんて意外にも程がある。私はただ動揺するしかなかった。胸の前で手を握ってみたり解いてみたりと持て余していると、どうなんだ、と先を促される。射るような目でこちらを見ながら。

「い、ない……」

「はい……」
「付き合ってくれ」
「…どこへでしょうか……」
「俺と付き合ってくれと言っているんだ」
「う、うん、だからどこかな」
、俺はに告白している」
「そ、そうなんだ………………うん!?」

 さっきより待て、ちょっと待て、いやもっと待て。二宮くんの言ってる意味が私にはよく理解できないようだ。随分重い話を切り出すようなトーンで何を言うかと思えば、一体何を言っているのか。顔面が変な表情のまま固まる。片方の頬が引き攣った。頭ではついさっき言われた言葉を理解しようとするものの、どうも追いつかない。速度も容量も何もかも。そんな言葉を渡す相手に相応しいのは、私なんかではないはずだ。そもそも私と二宮くんがちゃんと会うのは二回目で、ちゃんと面と向かって話すのは初めてだ。この間、望ちゃんを介して会ってから、二宮くんの中で一体何があった。望ちゃんがまた何か仕組んだのか。それとも、考えにくいが罰ゲームか。
 日本語を忘れたみたいに一言も出て来ない。ただ二宮くんと見つめ合っていれば、教授が入って来て講義が始まる。当然、その講義どころか、一日中講義内容が一ミリも耳に入ってなど来なかった。






(2016/04/06)