好きな人がいます。考えると心臓がどきどきして止まりません。なんなら息も止まりそうです。けれど致命的だったのは、彼がとんでもなく女性が苦手だということでした。
 そんなものだから見ているだけでいいと思っていたのに、彼は席替えで私の前になってしまった。見つめて見つめて見つめていると、もうそれだけでは足りなくなってしまうものらしい。毎日学校では黒板より彼の背中を見つめ続け、プリントが回って来る度にこっちを向いてくれないかな、なんて思うけれど一切そんな気配はない。それもそうか、と何度溜め息をついたことか。

「まあ確かにいいけどもう絶望的じゃん、辻なんて」
「分かってる……」
「そもそもきっかけってなんだったのよ」
「……絶対笑う」
「笑わないから、ほらほら」

 言われて思い出してみる。あれは多分、二年に上がってすぐだったと思う。私は鈍臭くて、特に慌てていると何もない所で転ぶような人間だ。それをまさに授業間の休憩時間にやらかしてしまった。移動教室で急いでいたら、何もない廊下の真ん中で滑って転んで、なぜか開いていたペンケースの中身を盛大にぶちまけた。まるで漫画のようだったと思う。廊下にはちらほら他の生徒もいて、一瞬私の周りは静まり返った。真っ赤になりながら散らかした教科書やペンケースの中身を拾い集めていると、ただ一人、何も言わずに手伝ってくれたのが辻くんだったのだ。
 一連の流れを聞いた友人は、思いっ切り噴き出した。笑わないと言った傍からこれだ。多分、彼女の中には辻くんに助けられたことより廊下のど真ん中で私が転んだことが残っているに違いない。さすがだわ、と涙目で笑いながら言う彼女はなかなかに、いやかなり失礼だと思う。

「今時漫画でもそんなこと起こらないと思うけどね」
「うるさいなあ!」
「まあのそのトロさがなければ辻に恋はしなかった訳だ」
「恥ずかしいとこ見られたけどね……」
「どうせ隠しててもいつかバレるんだから、ちょっと早かっただけだって」

 貶しているんだか励ましているんだか。まあ、あれも四月になってすぐのことだったし、辻くんももう覚えてはいないかも知れない。起こったことを覚えていたとしても、私だったとまでは。なんせ、辻くんとは二年になって同じクラスになった訳だし、私もあの一件で辻くんを知ったのだから。あれが、人生初の一目惚れというやつだと思う。
 あれ以来、ずっと目だけで辻くんを追いかけて来た。彼が女性が苦手なことはあの一件の直後に知ったことだったし、その時点で絶望的なことは私だってよく知っている。けれど、残念なことにふられないことには次に進めない私はそれでも辻くんを諦めることができない。いっそ好きだと言ってばっさりふられたいのだが、まずコンタクトの取りようがない。
 教室の隅で男子と話している辻くんをちらりと見た。あの日以来、近くで彼の顔を見ていない。いくら前後の席になっても、辻くんが私の前にいる限り辻くんの目はこちらを向くことはないのだ。せめて私が辻くんの前の席だったら、とこの席替え以降何度思ったことか。

「ま、がんばれ」
「適当だね」
「普段の行いが良ければ辻と二人きりになることだってもしかしたら万が一……億が一……」
「もういいよ悲しくなるだけだから!」

 そんな都合のいいこと、そうそう起こるはずがない。例えば私と辻くんの出席番号が前後の並びで、日直が一緒にでもならない限りは。でもその可能性はゼロだ。友人の言うように、なんとか運を引き寄せたいがどこに落ちているものやら。今日もまた後ろ姿を見つめて終わる。このまま一年が終わってしまったらどうしよう。成績次第では来年また同じクラスになれるとは限らない。恋ってもっと楽しいものじゃなかったっけ、とまた溜め息が出た。





 けれど、“そんな都合のいいこと”というものがまた、偶然に偶然を重ねたように起こるもので。あれから一週間と経たない内に、私は誰もいない放課後の教室で辻くんと遭遇した。いや、まだ私は教室に入っていないから、扉の窓から中にいる辻くんの姿を確認しただけなのだが。
 どうせいつものように早く終わるだろうと思っていた委員会が思いのほか長引いてしまったのだ。鞄は教室に置きっぱなしだったため、取りに戻る羽目になってしまった。すると、そこになぜか辻くんがいたのだ。一週間ほど前の友人の言葉を思い出す。辻くんと二人きりになることだってもしかしたら―――どうしよう、現実になってしまった。辻くんが女の子と喋れないのは知っている、けれどここで声をかけないのも変な話で、無視して帰るのは感じが悪い。それに、私にとっては辻くんと言葉を交わす絶好の機会でもある。もう二度とないかも知れないチャンスを逃したくない。
 何度か扉の外で深呼吸を繰り返すと、思い切ってその扉を開けた。当然、辻くんは驚いた顔でこちらを振り返る。けれど一瞬、本当に一瞬目が合ったかと思えば、すぐに逸らされてしまった。ですよね、と内心思いながらも、ショックを受けずにはいられない。

「お、お疲れ様……」
「……うん」

 辻くんも委員会だったのか、それとも他に何か用事があったのか、それすら聞けない。もう少しでも勇気のある女の子や、踏み込める女の子だったら、これくらい聞けるのだろうか。委員会会議で配られたプリントを鞄にしまいながら、ぼんやり考えた。少しだけ首を動かしてなんとか辻くんの表情を窺えないか試みるものの、斜め前ではなくて目の前のため全く意味がない。
 もう一言だけ声をかけて帰るか、と思っていたその時だった。

さん、委員会?」
「……え?」
「…………」
「あ、ああ、うん!美化委員会、ちょっと長引いて…!」

 そこまで聞いてないよね!私が何委員とか関係ないよね!―――こっちを向かない辻くんの背中に、心の中で思い切り叫ぶ。とにかく私は動揺したのだ。絶対に彼の方から何かを言われることなんて、この一年ないだろうと覚悟はしていたから、たった一言だろうと、しかも名前を呼ばれるなんて夢にも思わなかった。動揺と混乱と興奮とで、一気に体温が上がる。汗が噴き出したような気さえした。実際、じわりと手のひらが湿っている。結構、最悪だ。
 辻くんと喋るってこんな感じになるのか、と頭の隅っこは割と冷静だった。いや、実際は喋ると言うほど喋っていない。「さん委員会?」と、それだけだ。三秒もあれば言えてしまう程度の言葉。それでも私にとっては大事件に違いない。これ以上話せば、同じ空間にいれば、私の方が耐えられない気がした。せっかくのチャンスと思っていた私はどこへやら、今は教室から逃げ出したくて仕方がない。だって、心は何の準備もできていなかった。

「あ、あの、じゃあ…」
さん」
「はっ、い」
「間違いだったら悪いんだけど」
「う、うん」

 その後の言葉が辻くんから続かない。もしや、四月のあの事件のことだろうか。廊下で盛大に転んだのってさんだよね、とか言われるのだろうか。あれは確かに大事なきっかけだったけれど、正直に言えば辻くんには忘れて欲しいくらいの出来事ではある。あんなファーストコンタクトを覚えているのは私の方だけで十分だ。
 言葉の続きを待って、何秒だったか、何分だったか、短かったのかも知れないが、随分長く感じた。その間、目の前の背中は微動だにしない。私の方は裁判の判決を待っているような気分だ。多分何を言われても衝撃を受けるのだろうけど、それが良い衝撃か悪い衝撃かはまるで予測がつかない。歯を食いしばって、私は待った。

「見られている、気がして、さんに」
「…………」

 その通りです、と答えたのは心の中でだけだった。意外と視線だけでは伝わらない、と言っていたのはどこの誰だっただろうか。ばっちり届いていたようで急に恥ずかしくなる。どう弁解しようかと思ってみても、弁解のしようがない。辻くんをこれでもかと言うほど見ていたのは事実だ。いい加減、友人にも呆れられてはいたし、それこそ時間の問題だったのかも知れない。
 こういう時はどうすればいいのだろうか。まずは素直に謝って、理由を言うべきか。いや、それではかなり言い訳くさい。謝るだけで済むならそれでいい、問われた時に理由を言えばいい。だって、多分あまり関わりもないクラスメートに自覚できるほど見られているなんて、辻くんにとっては気持ち悪い以外に感じるものはきっと何もないのだ。私が一方的に辻くんを好きで忘れていたけれど、特に彼のような女性が苦手な人にとっては。はっきり迷惑だと言われた方がいい、そうして辻くんを好きでなくなるのが一番いい。気持ち悪いと思われ続けるくらいなら。

「ごめ、」
「同じだったらいいと思った」
「え?」
「声、かけられないから、見てるだけなのが」
「え……と、」
「俺だけじゃなくて、さんもそうだったらいいと、思った」

 詰まりながら、でも早口でそう言い切ると、「それじゃあ」と言って辻くんは教室を出て行ってしまった。早足で逃げるように。取り残された私は、その姿を目で追うので必死で、呼びとめることもできなかった。その隙なんて一ミリもなかった。やがて足音も遠のき、無音になった教室でさっきの辻くんの言葉を反芻する。何度も何度も、頭の中で、口の中で。意味を理解する前に、音だけが入って来る。

「おなじだったらいいとおもった……」

 誰と誰が、何が。辻くんが、私と、見ているだけなのが。声をかけられなくて、見ているだけなのが、同じだったらいいと、思った。誰が、辻くんが、誰と、私と。
 継ぎ接ぎの単語が頭の中を巡る。ほんの少しの言葉が、こんなにも理解できない。繋げるのは簡単なはずなのに、噛み砕くのに時間がかかる。まだ飲み込めない言葉と声が、何度も渦を巻いて私を混乱させる。
 きっと理解できないのは、私が馬鹿だからじゃないと思う。こんなことが起これば、誰だって混乱すると思う。嬉しいとか、そんな感情の前にただ混乱する、動揺する。ようやくさっきの会話を整理して理解できた時、私の顔はますます熱くて、立っていられなくてその場にしゃがみこんだ。顔を押さえてみても、その手すら熱い。もうどっちの方が熱いのだか分からない。
 少なくとも、さっき辻くんに言われたのは嫌悪感ではなかった。寧ろ、それよりもっと好意的なものだったと思う、都合良く解釈するなら。いや、これ以上都合のいいことなんてあって堪るか。何度も何度もついさっきの出来事を、言われた言葉を思い返す。けれど何度意味を考えた所で同じ所にしか着地しない。間違いなく、告白の一種だったのではないか。私が、するはずだった。

「どうしよう……」

 つい口から漏れた呟きは、教室には響かずに口先に留まる。吐き出した瞬間、返って来た自分への問いへの答えは見つからない。どうするもこうするも、答えなんてひとつのはずなのに。
 鞄を引っ手繰るように抱えて、走って教室を飛び出す。机の角で足を打った。教室のドアに肩をぶつけた。廊下に出てみると、少し遠くにいつも見ていた辻くんの背中が見える。声が出ない、彼を呼びとめるための声が。走るだけじゃない、呼ばなければ、呼びとめて言わなければならないことがある。

「つ、辻く……!!」

 なんで、同じことを繰り返すのだろうか。焦っていたのもある。けれど、また何もない廊下で滑って転んだ。今度はペンケースどころじゃない、鞄の中身を盛大にばらまいてしまった。あの時と違うのは、もう放課後の廊下には他に誰もいないことだけだ。膝はすりむいたようで痛い。摩擦を起こした手のひらも熱くてひりひりする。起き上って顔を上げると、あの日とは比べられないほど驚いた顔をした辻くんが立っていた。そこで、あの日以来、久し振りに辻くんと目が合った。さっきも彼を見ていたのは私ばかりで、その二つの目がこっちを向くことはなかった。それが今、幸か不幸か私の起こしたドジのお陰でこちらを見ている。

「あ、あの……」
「……大丈夫?」

 辻くんは、その足元にまで滑って行った教科書をはじめ、私から散らばった鞄の中身を一つ一つ拾いながら近付いて来る。私は腰が抜けたかのように動けなくて、ただひたすら辻くんを見つめていた。最後に教科書類を全て差し出されて、ようやく両手が動く。震える手でそれを受け取って、ぎゅっと抱きしめる。そうでもしないと、心臓が今にも飛び出しそうだった。

「だい、じょうぶ」
「立てる」
「う、うん」

 飛び出した鞄の中身を元通りに全部しまって、急いで立ちあがる。スカートの後ろを軽く手で払うと、辻くんは方向転換してまた歩き出す。
 言いそびれてしまった。またやらかしてしまったせいで、肝心なことを。だめだ、ちゃんともう一度追い駆けないと。追い駆けて、言わないと、聞かないと。辻くんの言葉の意味が私の解釈した通りで合っているか。痛む膝なんて気にしていられない。早足で追い掛けて、その背中を捕える。

「つ、辻くん、私……!」

 追いついた彼を見上げれば、髪の隙間から見え隠れする耳は赤い。それはさっきまでの私の顔と同じで、多分、私の聞きたいことの答えは合っている。わざわざ言葉で確認するまでもないと思った。

「一緒に、帰っていいかな…」

 だから、今の正しい答えはこれだったのだと思う。その証拠に、辻くんからは「うん」という小さな返事が聞こえた。








(2016/03/26 Happy Birthday Desuko!)