確かに、無感動を揺れ動かされた。人気のドラマを見ても、漫画を読んでも、音楽を聴いても動かなかった心が、動いた音がした。もう何年も使っていなかった涙腺は、涙の止め方も忘れてしまったかのようだ。
 多分、影浦くんは困っている。自分でも理由の分からない涙だ、怖くて顔は見られないけれど、どうすればいいか彼の方が分からないはずだ。早く止めなきゃ、早く泣きやまなきゃ、そう思うのに自分の気持ちに反して止まることがない。
 私なんて、こんな風に誰かに助けられるほどの価値のない人間で、優しくされることなんてないと思っていた。見返りの用意すらできない人間に優しくする必要なんて誰も感じないだろう。それなのに、なんで。

「あ、カゲがさん泣かせてる」
「るせー、勝手に泣き出したんだよ。どっか行ってろ」
「いや、さんを教室から出してあげた方がいいと思うけど」

 私を挟んで影浦くんと村上くんが喋っている。村上くんの言葉に、影浦くんは面倒臭そうに舌打ちをした。次の瞬間、影浦くんは私の腕を掴んで引っ張って行く。もつれそうになる足でその足の速さについて行くも、足元の覚束ない私は転びそうになる。そこをまた影浦くんに支えられると、「しっかり歩けバカ」と言われてしまった。理不尽だ。理不尽なのに、不思議と怒りは湧いて来ない。それは、私が無感動なのとは関係がない気がした。

「泣くほど辛いんなら言え」
「別に、辛いわけじゃ…」
「じゃあなんで泣いてんだよ」
「…分からない」

 いつも向けられる視線は冷たいもので、それでも私は構わなかった。もうそれに慣れ切ってしまえば、なんとも思わなくなる。それなのに、突然触れた温かさに、微温だとしても私の心は耐えられなかったのだと思う。
 階段の影まで連れて来られて、それでも私の涙は止まらない。きっと何年も泣いていなかったせいで、すぐに目は腫れてしまうだろう。そんな私を見ても影浦くんは何も言わず、ただ隣にいてくれている。やがてほとんど涙も止まり、しゃくり上げるくらいになった頃、影浦くんは私を見て言った。

「周りの声はうるせーけど、付き合う人間選べばいいだけの話だろ。下手くそなんだよは」
「え……?」

 思いもよらない言葉に、ぽかんとした。そういう考え方の違いが、同じようにクラスで浮いている人間でも周りに誰かいるかいないかの違いなのだとも思った。私も影浦くんも、一人では平気ではいられないことがあることを知っている人間だ。けれど私はそれでも目を逸らしていたし、気付かない振りをしていた。影浦くんはそうじゃなかった。ちゃんとそれを知っていて、面倒な人間は相手にせず、ちゃんと自分を理解してくれる人間を選んでいたのだと思う。最低限必要な人付き合いがあることを、彼は知っている。それを受け止めてもいるし、きっと人と関わることに悲観なんてしていない。私は無理だ駄目だと最初から決めつけて、人を寄せ付けないようにしていた。私の方が先に周りを嫌いになれば、周りに嫌われた所でどうということはない。本当は、そんなことあるはずがないのに。

「それって、影浦くんってこと?」
「そうとは言ってねーよ」
「……そっか」

 一時の同情でどうこうというのはよくあることだ。ちょっと世話を焼いたからってそれ以降も、とは限らない。それはそうだ、私のような面倒な人間には付き合いきれない。結局はそうか、と思うとまた目元が熱くなる気がした。
 でも、思えば嬉しかったのだ。影浦くんが話しかけてくれたこと、教科書を盗まれたことを教えてくれて、探し出してくれたこと。そんな風にされたら、どうしたって私が勘違いしてしまう。まだ私にも優しくしてくれる人がいるのだと、私を気にかけてくれる人がいるのだと。そう思うと私がまた寄りかかりそうになってしまう。向こうが私をどう思っているかも知らずに。
 ごめん、と言いかけた口の前に、言葉を制止するかのように影浦くんの手の甲が向けられる。

「勘違いすんな、俺だけじゃねーって意味だ」
「…………」
「んだよ、その顔」
「…いや、なんでもない、けど……」

 どうしてだろうか、期待してしまった。私の選ぶ付き合う人間と言うのが、最初は影浦くんがなってくれるのではないかと。そんな都合のいい話、あるはずがないのだ。これだけ影浦くんに与えてもらっておきながら、私はきっと返せるものが何もない。

(あれ…………)

 そういうやり取りが、私は嫌なのではなかったか。「親切にしてあげたんだから親切にしてよ」という、そんな付き合い方が嫌で人と距離を置いたのではなかったか。今私は、何を考えただろう。与えられたものに対して、私から何かを返そうだなんて、そんなこと思ったことなかったのに、私は今、いつもの私らしかぬことを考えた。返さなきゃ、と思った。そうでなければ釣り合わないと。

「人が見て息苦しそうなやり方してんじゃねーよ」
「息苦しそう…?」
「毎日毎日息してませんみたいな顔しやがって」
「それって死んでるんじゃ……」
「そうだっつってんだよ」

 面倒臭そうにがしがしと頭を掻く影浦くん。どうしてだろう、こんなにも言い方はきついのに、全然痛くない。むしろ、なぜそこまで見透かすことができるのか不思議で仕方なかった。そこまで私は見られていたと、気にかけられていたと勘違いしてもいいのだろうか。
 影浦くんは、よく周りを見ている。私は違う、周りを見ないようにしていた。いかに息を殺してその場にいないかのようにするので必死だった。目立たないように、気付かれないように教室にいたかった。誰にも見つからないでいたかった。そういう意味で言えば、確かにあの教室で私は死んでいるも同然だった。空気のように、見えないような存在でいたかったなんて。けれど、それを全て崩したのは影浦くんだ。隣の席になってから、常に私は彼に存在を認識されていた。あまつさえ話しかけられもした。あまりにも意外だった、影浦くんが私のようなそれまで接点のない人間を気にかけるなんて。

「影浦くん」
「あぁ?」
「思い出せるかな、私、息の仕方」

 付き合う人間を選べというのは、きっとこういうことだ。私が自ら何かを差し出せるような人間を選べ、ということだ。与えられた優しさに対して何かを返すことを苦に思わない相手。もしも今、誰か一人それを挙げろと言われれば、私は迷わず影浦くんの名前を呼ぶだろう。私に、誰かと会話することを思い出させてくれた。優しさの温度を思い出させてくれた。私に何ができるかなんて、何を返して行けるかなんて分からない。だって、やっと思い出したばかりなのだ、人に優しくされることがこんなにも温かいことだったと。

「手伝うくらいならしてやるよ」

 その言葉に、また涙が溢れて来る。影浦くんは、「何度も泣いてんじゃねーよ」と言って乱暴に私の髪を掻きまぜた。







(2016/04/05)