「あ……」 「なんだよ」 独り言にすらならない小さな声を、隣の席の影浦くんに拾われてた。慌てて「いや、なんでも…」と返すが、内心少し焦っている。 次の授業の教科書がなかった。確かに持って来た筈だ、登校して来てすぐ、鞄から机の中へ移した覚えもある。多分、どこかに隠された。こんなこと、私にとっては別段珍しいことではない。ただ、他のクラスに教科書を借りるくらいの知り合いもいないため、次の一時間をどう凌ぐか考えなければならない。幸い次の授業は教科書を読ませるような先生じゃないし、席も一番前ではないので適当に他の教科書を出しておけば一時間くらいは何とかなる。問題は明日からだ。これまでも時々教科書を隠されては、その度に新しいものを購入していた。親に言う訳にもいかず、自分のお小遣いの範囲で。こう何度も新しいものを買い直していたらきりがない。もういっそぼろぼろでも良いから返して欲しいものだ。 「おい」 「なに」 「やる」 「え?」 ずい、と差し出されたのは教科書だった。次の授業で使う、まさに私が探している教科書だ。 「影浦くんはどうするの」 「借りた」 「あ、そう…」 「の教科書なら大原たちがパクって行った」 「だろうね」 教科書を受け取りながらそう答える。これまでもそうだ、彼女らが時々私の机を中を物色しては教科書や提出しないといけないプリントを盗んで行く。下らない、と思って相手にしないのがまた癪に障るらしく、未だにこういうことが続いているわけだ。 影浦くんの机の上には、確かにもう一冊同じ教科書がある。本当に他のクラスから借りて来たらしい。教科書を広げると、マーカーも引いてなければ書き込みもしていない、中身だけは新品同様だった。この人、毎回どうやって試験をパスしているのだろうか。ギリギリの所で回避しているようなイメージしかない。 「おい」 「なに」 「何か失礼なこと考えてんだろ」 「赤点は免れてるのかなって」 「追試が面倒くせーんだよ」 チッ、と舌打ちをして見せる影浦くん。思いの外、納得のいく答えが返って来て少し驚いた。まあそれでも、進路をあまり選ばず赤点さえ取らなければ大概はなんとかなる。この影浦くんが偏差値の高い大学へ行きたがっているとも思えない。 「おい」 「だからなに」 「てめーまた失礼なこと考えてただろ」 「…あんまり」 「…いい加減にしろよ」 言葉だけ見ればいつも乱暴だけれど、表情を窺えばそうでもない。多分、本当に怒っているのだったら教科書を貸してくれることなんてしないし、誰が私の教科書を盗って行ったかなんてわざわざ私に教えてくれたりしない。ただ、じゃあ、何のためだろうか。今月から隣の席になったくらいで、私に親切にする理由は何だろうか。私がこれまで影浦くんに何かしたかと言われれば、それも覚えがない。けれど、だからって「なんで」と直接訊けるほどの勇気はないし、そこまで興味もない。ただ、この親切の裏に影浦くんが私に何かを求めているとして、それに応えられるだけの人間ではないことは確かだ。同じように影浦くんが私に親切にして欲しいと思っているなら、私にはできないことだった。 そもそも、もう“優しさ”だとか“親切”だとかいうことが分からない。無償でないのなら、それは優しさでも親切でもないのではないか。見返りを求めた時点で、対価を求めた時点で全て疚しさに変わるような気がした。 「影浦くん」 「…んだよ」 「ありがとう、教科書」 だからと言って、お礼を言わないのはまた別の話だ。好きとか嫌いとか表裏の前に、人間として。私の言葉に、影浦くんは目だけでこっちを見て「別に」と言った。 *** 翌朝、教室に行くと珍しく私より先に影浦くんが登校していた。そして、私の机の上には昨日盗られたはずの教科書。手に取って最後のページを開けてみると、確かに“”と書いてある。多少以前よりくたびれている感じはするが、間違いなく私のものだ。 「影浦くん、これ……」 「あ?」 「まさか脅し…」 「してねーよ。てめー本当に遠慮ねえな」 「やっぱり影浦くんだったんだ」 「…………」 私の教科書を戻してくれるなんて、きっとこのクラスには影浦くんくらいだろうと思っていたが、やはりそうだったらしい。このくたびれ方や汚れ方を見るとどこかに捨てられていたのだろうが、そんなことはどうでもいい。落書きされたりページを破られたりもしていない。まだ、この教科書は使える。ただ、甚だ疑問だった。私の心の底には疑いがあって、恐る恐る影浦くんを見上げた。 「なんで」 「なかったら困るだろ」 「そうだけど…」 だって、何かしてもらった所で何もできないのに。何かをした覚えもないのに。大概の人の親切の裏側は分かりやすく見え隠れするのに、影浦くんからはそれが見えない。リターンを求められているようにも思えない。じゃあ、一体何なのだろう。本当に裏のない優しさなんて存在するのだろうか。本人はどういうつもりなのか分からない、分からないから私は混乱した。ありがとう、という言葉しか出て来ないのに、それ以上何かしないといけない気がして、でも私には何もできないことを知っている。何もしなくていい、という言葉の裏にだって本当は対価を求められている、それも知っている。 「なんで…」 全部分かっていたはずで、全部諦めていたはずだ。求められるなら何も要らないと、周りを遮断したのも自分だ。最初から嫌いだったら嫌われようと嫌がらせを受けようと大したダメージにはならない。優しくされることも望んでいない。それなのに、今私が触れているこれは、優しさ以外になんだというのだろうか。それを簡単に受け取って、あまつさえ嬉しいと一瞬でも思ってしまった私はなんだろうか。厚かましい、自分勝手、そんな言葉が浮かんでは心に刺さった。 もう私の中身は空っぽだったはずなのに、くたびれた教科書の上に右目から溢れた涙が落ちる。斜めに持った教科書の表面を、それは滑って床に落ちた。 「別に、捨てられてるのを拾っただけだ」 嘘だ、と言おうとして言えなかった。ひくりと喉が引き攣って声が出ない。嗚咽を漏らさないように必死に堪えた。 緩んだ蛇口から滴った水が、空っぽの器に落下する。もう長い間触れることのなかった他人の優しさは、痛くて痛くて、そして温かかった。 |