「烏丸くんどうしたの?土曜日に学校なんか来て」

 図書室で課題をしていると、先輩が声をかけて来た。土曜日に学校なんか、と言うが、先輩こそ土曜日になぜ学校にいるのだろうかと聞きたい。しかも結構な重量の本を抱えている。その背表紙には全て純文学作家の名前が書かれている。

「この間任務で授業抜けたんで」
「ああ、それで課題?土曜は初めてじゃない?」
「まあ、そうすね。先輩は」
「私は委員会、図書委員だから」

 それは初耳だった。どおりでよく図書室にいるわけだ。時々調べものに図書室に来るが、毎回先輩がいた理由はそれだったらしい。そういえば、最初に先輩と会ったのも図書室だった。脚立もなしにどう考えても届かない位置にある本を取ろうとしていた所を助けたのだ。あれ以来、図書室だけでなく廊下などで俺に会う度に声をかけて来る。今日もそうだ、俺を偶然見つけたからいつも通り声をかけて来たのだろう。しかしせっかくの土曜日が委員会で潰れてしまうとは勿体なくないのだろうか。
 先輩は抱えている本を遠慮なく机の上に置くと、「何の授業?」と教科書を後ろから覗き込んで来た。

「世界史かあ。教えてあげようか?」
先輩、国語系以外駄目って聞きましたけど」
「誰に」
「出水先輩」
「え、出水同級生じゃないしなんで私の成績とか知ってんの。言っとくけど出水よりはできるから」
「…はあ、そうですか」
「なにその疑りの目」

 そう言うと、俺の隣に座る。図書委員の仕事を放棄したらしい。ふんふん、などと言いながらこっちに身体を寄せて来る。先輩はパーソナルスペースが狭いらしく、話す時も歩く時も他の人に比べて距離が近い。腕と腕がぶつかるほどこちらに侵入して来ると、ふわりと何か香りがした。香水は嫌う人だ、きっと先輩の使っているシャンプーか何かだ。いつもこんな風に距離を近く保つので、その香りももう十分知っていた。
 この辺嫌いなところだ、と言って先輩は離れて行く。この辺、と言って指を刺したのは、中世の文学についての項目だった。日本の文学については強いのに、先輩は海を越えると駄目なのだとよく分からない理屈を展開している。

「恋愛論とか幸福論とかなんちゃら論とかだめ」
「読んだんですか」
「うん、つまらなかった。あっ、これ個人的な感想ね。烏丸くんが読んだらまた違うかも」
「あんまり興味が出ませんけど」
「だよね。小難しく考えるものじゃないよ、恋愛とか幸福とかって」

 だからこういうのだめ―――そう言って口を尖らせた。普段は図書室でこれだけ喋っていたら注意されるが、生憎今日は土曜日で人が殆どいない。さっきまで数人みかけたが、十二時も近くなって出て行ったらしい。それとも、さっきまで図書室の利用者だと思っていたのは先輩と同じ図書委員だったのかも知れない。そういえば、学期末は図書の在庫確認が忙しいとクラスの図書委員がぼやいていたような気がする。先輩が明らかにキャパシティを超えた量の本を抱えていたのも、きっとそのせいだろう。冬だと言うのに腕を捲って走り回っていたらしい。制服の袖から覗く腕は細くて白い。
 先輩は単にパーソナルスペースが狭いだけかも知れないが、これだけ構われてあまつさえ接触なんてされれば意識しないはずがない。それも昨日今日の話ではない。件の初めて話した時もそうだ、取りたかったらしい本を取って渡すと、「ありがとう、助かった!」と言いながら俺の腕に触った。
 他の人間にもそうなのだろうか―――間違いなくそのような気がする。だとしたら、勘違いする男子生徒は続出に違いない。先輩は目立って可愛いとか、特別美人というわけではないが、なんせこんな風に誰にでも笑顔を振りまいている。裏表はないしおまけにこの距離感だ。先輩にこれだけ構われれば、男子高校生なんて簡単に思い込む。それは俺も例外に漏れず、だ。

「じゃあ、先輩の恋愛論ってなんですか」
「私さっきそういうのだめって言ったじゃん」
「持論の展開を希望します」
「十六歳らしからぬ言い回しだなあ。可愛げ持とうよ」
「二つしか違いませんよ」
「学生時代の二つは大きいぞ」

 その言葉に、胸の奥に鉛が落ちて来たような気がした。その二つの歳の差を感じさせないような接し方をして来たのは先輩の方だと言うのに、悪気はないものの突き放された気分だ。言っていることも正しい、先輩が知っていて俺が知らないことももちろんある。学生時代の歳の差二つは、かなり大きい。現に、例えば俺が入学した頃には既に先輩と出水先輩、あと米屋先輩も一つの学年差を超えて結構仲が良かった。寧ろ先輩は同級生に友達がいるのか少し心配になるほどには。
 誰にでも平等な先輩、誰にでも同じように構いに行く先輩。お陰で俺もこうして覚えてもらって話しかけられる訳だが、プラスがあればマイナスもある。誰にでも平等と言うことは、即ち誰も特別ではないのだ。最近はずっとそれを考えていた。先輩のたった一人の特別になるにはどうすればいいのかと。

「私の恋愛論かあ…」
「ないなら別にいいです」
「自分から振っておいて何それ。…そうだなあ、出会って触れた瞬間分かるよ、この人だって」
「それでよく色んな人を触ってるんですか」
「うわ、そういう言い方する。まるで誰かれ構わず手出してるみたい」
「違うんですか」
「それ本心だったらかなり傷付いているんだけど」

 またぶすりとして自分の前に山積みにした本の一冊を手に取る。真面目に読む訳でもないそれをぱらぱらと捲って、また閉じた。本の表紙には『舞姫』と書かれている。そのタイトルを、腕と同じように細い人差し指がなぞった。

「文学作品みたいな劇的な恋なんて希少だよ、希少」
「先輩も日常会話に相応しくない言葉使いますね」
「話の腰を折らない。…私はね、恋に落ちた感覚って言うのが触ってみないと確信できなくて、一回で分かれば良いけど二回三回触らないと分からないこともあるんだよね」
「痴女ですか」
「黙りなさい思春期」

 そう言って睨むとぺしんと頭を叩いて来た。
じゃあ、触ってそれが恋だと確信したらどうするのだろうか。それ以上触れなくなるのか、もっと触りたくなるのか。もし前者だとしたら、いつまでも接触して来る俺のことははっきり言ってどうも思っていないということではないか。さすがにこれだけ触られ続けて確信が持てないということはないだろう。一発喰らった鉛弾の二発目を受けた。
 そんな俺の心境など知るはずがなく、黙った俺の顔を覗き込んで来る。まるで、軽く教科書を覗き込むみたいに。無自覚というのは恐ろしい。いつもの反撃をしてやろうと、先輩の剥き出しの腕を掴んだ。

「じゃあ言いますけど、あんまり確かめるためにべたべた触っていたら勘違いする人が出て来ますよ」
「あー…いたいた」
「………先輩」
「でも勘違いして欲しくて触っていることもあるよ?」
「それ勘違いじゃないですよね」
「うん、意識して欲しいって言うのが正しいかなあ」

 先輩は、基本的に裏表のない人だ。だから好かれる、だから勘違いされる。ただ、それがもし本当は計算し尽くされたものだったら。ファーストコンタクトの時点から先輩の術中だったとしたら。表だと思っていたものが裏で、裏だと思っていたものが表の可能性はどれくらいだ。
 にこにこといつもの笑みを絶やさない先輩は、俺の腕をやんわりと解くと、両手で俺の顔に触れた。一定の間隔で瞬きをするその双眸に、一体どんな風に俺が映っているのか。これまでの先輩が計算されたものだという可能性が浮かんで、その笑みに裏があるようにすら見えてしまう。してやったり、とでも思っているのだろうか。

「烏丸くん、私をすごーく良い人だと思っているみたいだけど、そんなことないからね」
「…今分かりました」
「大体、それを知って私を嫌になる人が多いんだよね」
「そりゃそうですよ」
「そういう口を聞ける烏丸くんなら大丈夫かなあ」
「さあ、どうでしょう」

 意地悪いなあ、と言いながら苦笑する。意地が悪いのはどっちだ。良い先輩を装って近付いて、気を許したと思えば捕獲だなんて、結構な策略家だ。利用された感じが否めない。それでも、そんな先輩に嫌悪感は生まれて来ないし、天然で誰でも触りに行っている訳ではないことが分かり、ほっとしている部分もある。それに、そういうつもりでこれまで俺に接していたのだとしたら、こっちも遠慮する必要はない。

先輩、自分から触りに行ったなら、相手が勘違いしたタイミングも分かった方が良いですよ」
「そうだねえ。でも分かってるよ、分かってるからやってる」
「ますます悪質です」
「うーん、あと私に足りないのは打ち明けるタイミングの見極めなんだよね」
「教えてあげましょうか」
「うん」
「遅いです」
「わーごめーん…って怒ってるし」
「そりゃ怒りますよ」

 いつまでも俺の顔を挟んでいる両手を退けると、今度は俺が先輩の頬に触れる。これだけ平然としておいて、本当にそのつもりなのだろうか。疑いの意味を含んで見つめると、おもむろに俺の左手を掴んで自分の心臓に重ねて見せた。そこはちょっと、いや、かなり大分際どい位置なのだが。

「ね、触ったから分かるでしょ?」
「…そこまで身体張らなくていいです」
「そう?でも嬉しいでしょ?」
「場所考えて下さい、あと簡単にそんな所触らせないで下さい」
「もう一つ言っておくと、私結構すけべだからね?」
「今のでよく分かりました」

 これ以上は限界だと無理矢理手を取り返す。そんな俺を見て、なおも先輩は楽しそうに笑っている。どうやらとんでもない人を好きになってしまったようだ。先が楽しみのような、思いやられるやら、複雑だがとりあえず他の誰かを簡単に触らないように釘を刺すことが先決だと思った。






(2016/02/14)