『山下に彼氏ができたって…』
『ああ、知ってます。さんは?』
『それ聞く?いたらこんな落ち込んでない…』
『はあ…落ち込んでるんですか』
『山下をとられた…』
『じゃあさんも作ればいいじゃないすか、彼氏』
『簡単に言わないでよ!私なんかに簡単に彼氏ができたら苦労しないんだから!』

 半分泣きそうになりながら叫んだ私に、あの日烏丸くんは「そうですか?」と平然とした様子で言った。あの時の私の話を、一体どんな気持ちで聞いていたのだろうか。











「逃げたんだって?」
「…………」

 翌日、私は大学の学食で山下に説教されていた。昨日、烏丸くんを待たずに帰った一件らしい。もう情報が回っているなんて怖い。そこで、やはり山下の送って来ていた刺客と言うのは烏丸くんだったのだと確信する。

「ようやく気付くなんてどうしようもない馬鹿ね」
「う……」
「たかがファミレスであんなお釣りの渡し方しないっての」
「まさか」
「あれ教えたの私だけど?」

 ですよね、という顔が引き攣った。烏丸くんと連絡先を交換していなくて良かったと思う。そんな機会もなかったけれど、もし連絡先を知っていたらなぜ帰ったのか問い詰められていたに違いない。
 第一は、腹が立ったからだ。ふられた所につけこもうとしていたのか、と思うとなぜか腹が立った。ふられるのを待っていたのかと思うとますます腹が立った。山下を使って来たのも腹が立った。けれど、よく考えてみれば片思いしてる最中なんてそんなものだ。私だっていろんな手を使って先輩に近付いて、なんとかアドレスを手に入れていた訳だし、それより前だって、好きだった相手が彼女と別れたとなればチャンスと思っていた。恋愛なんてそんなものだ。分かっているのに、いざ自分がその対象になったと思うと急に腹が立って来た。自分勝手なものである。

「私だって烏丸がしょうもないやつだったら協力なんてしてないわよ」
「それは、そうだろうけど…」
「そうやって抜けている所があるから年下でもしっかりした男の方がいいんでしょうが」
「貶されている気がする」
「今回ばかりはに厳しいわよ、私」

 とりあえず今日もうちのバイト先に来なさい―――そんな言葉を残して山下のお説教は終わった。随分冷えた空気を醸し出していたらしく、山下が去った瞬間、周囲のテーブルの空気も変わった。なぜか私が「すみません、すみません」と言いながら学食を出る羽目になる。
 今日も山下のバイト先に行けと言うことは、烏丸くんも出勤していると言うことなのだろう。そうでなければ行く意味がない。一気に足取りが重くなる。身体も心も重くて仕方ない。昨日あんなことをしておいて、どんな顔で会えば良いのやら。急に烏丸くんが体調不良になってバイト休みにでもならないだろうか。
 けれど、世の中そう上手くは行かない。一人でファミレスのドアを開けると、まさにレジに烏丸くんが立っていた。気まずくて顔を背けながら「一人です」と言うと、いつも通りの接客をされる。こちらへどうぞ、といつも山下と来る時と同じ窓際の端の席に案内された。

(驚きもしなかった……なにあれ……)

 それとも、表情に出さないだけで内心とても怒っているのだろうか。レジの方へ戻って行く烏丸くんの背中を目で追いながら考える。すると、不意に振り返り目が合う。慌ててメニューに視線を落とした。
 恥ずかしい、きっと見ていたと思われた。あまりにも不自然だった、いや、見過ぎたか。もうどうすればいいのか分からない。昨日のことなんて一言謝れば良いだけなのだろうが、烏丸くんに“そういう”気持ちがあったと知ってしまった手前、私が烏丸くんより不自然だ。どうしても気にしてしまう。そもそも、なんで私だったのか。ここは山下のバイト先でもあり来やすいことは来やすかったし、事実何度も来ていた。けれどそれだけだ。私が直接、烏丸くんに何か指導したとか、高校からの知り合いだとか、そんなことは全くない。そもそも、四つ違えば中学も高校も被らないのだ。

「ご注文はお決まりですか」
「ひゃいっ!?」

 ベルを押してもいないのに烏丸くんがテーブルまでやって来る。思わず変な上ずった声で返事をすれば、「なんですか、ソレ」とぼそりと呟いて見せた。それがあまりにもいつも通りで、メニューを握り締める手が強張る。恐る恐る見上げると、やっぱりそこにはいつもとなんら変わらない顔をした烏丸くん。まだ決まってないんだけど、と思いながら、適当にメニューをめくって結局カルボナーラを頼んだ。すると、白紙の伝票が渡される。
 不思議に思ってもう一度烏丸くんを見ると、その手が伸びて来て伝票を裏返す。そこには、“あと二時間、今日こそ待っていて下さい”と走り書きされている。ぎょっとして三度目、烏丸くんを見る。

「ドリンクバーつけとくんで」

 周りには聞こえないような声で言うと、本当に勝手にドリンクバーをつけられてしまった。また烏丸くんはホールに戻って行く。私宛ての個人的な伝票を持つ手が震える。何度読み返しても書いてある内容は同じ。どういうつもりでこんなものを渡して来たのだろう。やることが狡い。今日こそ、なんて。そんな風に言われてしまえば、昨日すっぽかしてしまったせいで逃げる訳にはいかなくなってしまう。上手く帰ろうとしてもレジで間違いなく引っ掛かる。きっと山下も一枚噛んでいるに違いない。
 とりあえず落ち着くために飲み物を取りにドリンクバーへ向かう。これから二時間、私はこんな気持ちで過ごさないといけないのか。せっかくカルボナーラが届いても味がしなかった。せっかく注文したのだから残さず食べなければと思うが、胸がつっかえる。かなり、苦しい。

(帰りたい……)

 でも帰れない。時計を見れば、約束の時間までもうあと数分だ。あと数分で烏丸くんはバイトを終える。私はそろそろ会計をして外で待っているべきなのだろう。けれどなかなか腰は持ち上がらない。ちらりとレジの方を見れば、会計しろとでも言うように烏丸くんがこちらに視線を送っている。ですよね、と思いながら形だけテーブルに広げていたレポート用紙を片付ける。
暗い気持ちでレジに向かえば、「帰らないで下さいね」レシートを私に握らせて、釘を刺された。いつも以上に念入りに手を掴まれた。幸いレジの後ろは閊えていないが、誰が見ているか分からないレジでこんなやり取りは恥ずかし過ぎる。引っ手繰るように手を振りほどいて、俯いたままお店を出た。
 何度も、ここの駐車場で山下を待ったことがあった。その内の何回か、山下と一緒に出て来た烏丸くんと遭遇したことがある。烏丸くんを待ったことも何度かある。今思えば、だ。確かに何とも思っていない女相手に「バイト終わるまで待ってて下さい」なんて言わない。私は本当に何も見えていなかったのだと思う。けれど、あれを断る理由もなかった。でももしそれが、私の態度が逆に思わせぶりだったのだとしたら、酷いことをしていたのは私なのか。そのつもりはなくても、結局は主観の問題だ。昨日のことだって私の主観、私の態度を思わせぶりと思ったとしてもそれは烏丸くんの主観。

「お待たせしました」
「あ……うん、いや、うん……」
「送ります、バス停まで」
「……うん」

 烏丸くんの顔が見られない。俯いたまま返事をして、そのまま歩き出す。辺りはもう真っ暗だけれど、車の通りもあるお陰で表情はしっかりと分かる。それを確認するのが酷く怖かった。気まずくて気まずくて、怖かった。

「…さん、困らせるつもりはなかったんです」
「え……?」
「別に俺は、さんとどうこうって訳じゃなくて、山下さんが勝手に世話焼いただけなんで」

 はっきりとは言わないが、山下が烏丸くんを私に紹介して、あまつさえ、という流れのことを言っているのだとは分かった。足を止めないまま烏丸くんは話し続ける。

さんは大学生で、俺よりずっと大人ですから」
「そんなこと…」
さんが好きだった相手は更にその先輩で、俺なんか射程範囲外だて分かってました」
「…………」
「だから、そんな顔しないで下さい。よく山下さんと来て、喋って笑っている所を見ているだけで良かったんです」

 烏丸くんが足を止めないから、私が足を止める。そんなこと、こうやって歩きながらする話なんかじゃない。やっぱり酷いのは私だったのだ。烏丸くんは付け込もうなんてしていなかったし、寧ろ励ましてさえくれた。
 情けないと思う、恥ずかしいと思う、ただの八つ当たりだったと思う。先輩にふられて、悲しくて悲しくて、辛かったのは本当だ。けれどそれは烏丸くんには関係のないことで、待っていて欲しいと言われた約束を反故にする理由にはならない。山下だって怒る訳だ。純粋な好意を踏みにじった私は最低な人間だ。いくら悲しくて、辛くて、周りが見えていなかったとしても、やってはいけないことだった。だから、ここで泣くのはお門違いのはずなのに。

「なんで泣くんですか、さん」
「私が、ばかすぎて…っ」
「別にばかじゃないと思いますけど」

 そう言うと、持っていたポケットティッシュを渡される。目元を軽く押さえれば、アイシャドーのラメがティッシュに散らばってキラキラと光った。

「俺もさんと同じ立場だったら同じことをしたと思います」
「烏丸くんは多分、そんなことしない…」
「さあ、分かりませんよ。現に今、本当はさんを抱きしめたくて仕方ないです」
「こ…ここ公道…」
「そうですね、それでもです」

 いつもお釣りを渡す時と同じように、私の右手を掬う。今日は私の手のひらに返って来る小銭はなく、この間のようにのど飴が置かれることもない。ただ、大きな両手が私の右手を優しく包んだ。
 まだ涙で視界はぼやけているけれど、烏丸くんがどんな顔をしているかくらいは分かる。多分一瞬でも気持ちを許せば、言った通りのことをする目だった。今は手だけで留まっているけれど、後ろめたさや申し訳なさであっても「いいよ」なんて言ってしまえば、簡単にその腕に閉じ込められることは予想できた。だから、口を固く閉じて不自然な呼吸を繰り返すしかできない。

「…しませんよ、だから安心して下さい」

 私が警戒していることを察したのか、そんなことを言う。けれど手は離れないまま。離して、とは言えなかった。

「でも、さんが好きです」
「……私は…」
「返事は要りません。ただ、好きでくらいいさせてくれませんか」

 だからなんで、という私の声は喉元で留まる。思えば、私だってそうだった。私が先輩を好きだった時、明確な理由なんてなかった。きっかけはあっても、恋に落ちるのなんて、文字通り一瞬なのだ。たった一瞬の表情に心を奪われることだってある。たった一つの言葉ですら。烏丸くんが私に対してそういう瞬間があったのかどうかは分からない、私と違って理由があったのかも知れない。けれどそれを今聞くのは違う、今ではないのだ。その気がないのなら聞いていいようなことではない。好きでいさせて欲しい、という言葉を拒否することだってできない。だって、そう簡単に諦められないことは私だってよく知っているから。

「……はい」

 よかった、という小さな声が降って来る。顔を上げれば、少し頬を赤くした烏丸くんがいる。いつも表情を変えない烏丸くんが、珍しく少しだけだが顔が赤い。この人は、本当に私を好きなんだ、と思った。好意を持たれて嬉しくない人間はいないが、失恋直後で喜ぶなんて調子が良いにも程がある。
 いつの間にか涙も引っ込んだので、ポケットティッシュを返す。けれどそれはいいと断られてしまった。行く宛のないポケットティッシュを握らされ、分かった、と言って鞄にしまう。
 多分、多分だ。遅かれ早かれ、この手はお釣りを渡す以外にも私に触れるのだろうなと、なんとなく思った。私の脳は馬鹿だけれど、お陰で単純なつくりをしている。今これだけ失恋でショックを受けていても、別に差し伸べてくれる手があれば、程なくそれにほいほいついて行くのだろう。山下もきっとそれを分かっている。本当は、その手を取るのがもっと早ければ、とでも思っていたことだろう。私に絶対振り向いてくれるはずのない背中より、毎日のように触れていた手には、気付くのがあまりにも遅かった。
 バス停についてすぐ、バスはやって来る。バス停の手前の交差点で赤信号になり、バスは止まる。それを横目で見て、烏丸くんは最後に言った。

さん、お気をつけて」
「…烏丸くんも」
「また来て下さい、待ってるんで」
「うん」
「あと」
「うん」
「これからも送らせて下さい。待たせますけど」

 信号が青に変わる。バス停にバスは到着する。ドアが開いて、私に早く乗るよう催促する。バスのステップに足をかけて、ICカードを通しながら言葉を返した。

「じゃあ、連絡先、今度教えて」

 バス停側の席に座り、バスの運転手がそれを確認するとバスのドアが閉まる。窓の向こうに見えた烏丸くんは驚いた顔をしていた。走り出したバスの中で、私は一人、熱くなるばかりの心臓を押さえた。





(2016/02/24)