幼馴染のに、ある日突然彼氏ができたらしい。相手は三年生の先輩だそうで、委員会で知り合ったのだという。年季の入った片思いをしていた身としてはかなりショックな出来事ではあったが、が嬉しそうにしているからまあいいか、と思いもした。けれど、小さい時から一番近くにいるのは自分で、のことを一番よく分かっているのも自分だと思っていただけに、やっぱり他の誰かにの良い所を知られたことは面白くない。ボーダーにも同時期に入隊した。今はが本部、俺が玉狛に転属になって、ボーダー内では接点はなくなってしまったが。
 幼馴染というだけで、なぜか安心している所があった。そう都合よくもこっちを向いてくれるはずがないのに、いつまでも一番近くにいると思い込んでいたのだ。

「京介くん!今日は非番だから私、先輩と帰るね!」

 初めてできた彼氏にも浮かれているらしい。笑顔で手を振って帰って行く。廊下に立っているその先輩とやらも俺を見る。会釈だけ取り敢えずしたが無視された。…感じ悪いな。

「烏丸、ちょっと」
「なに」
「機嫌悪いところごめんって」

 とその彼氏がいなくなったことを確認して、が声をかけて来た。は中学からの友人だから俺もよく知っている。だが、話しかけて来ることはあまりなかったので思わず身構える。機嫌が悪かったわけではない。それを訂正する必要性もないため、何も言わなかった。
 対するは、やや深刻そうな顔をしている。心配なんだよね、と呟いた。

「あの先輩さ、あんまり良い噂聞かないんだよね。、何もないといいけど」
「…B級隊員は出来高払いだぞ」
「カツアゲの心配じゃないっての。こんな所でボケんな」

 噂の内容がどういうものかまでは言ってくれないらしい。俺も俺で校内の情報には疎いとまでは行かないが、よく耳に入れる方でもない。の彼氏も紹介されても全く知らない三年生だった。思えば、その時から感じ悪かった気がする。俺も人のことは言えないかも知れないが。
 のことなら俺がよく知っている。あれだけ抜けていてどんくさい所もある癖に、身体能力は高い。A級入りを目指してランク戦も奮闘していて、いい線行っているというのが最新の情報だった。ああ見えてちゃんと勉強もしているので成績の心配もなし、彼氏ができたからと言ってどれか一つを疎かにするようなやつでもない。けれど一つだけ心配する所があるとすれば、安易に人を信じやすい所だった。それでボーダー内でも泣かされている所を何回か見かけている。多分、が心配しているのもそこだろう。

「何かあったらが頼れるのは烏丸なんだからね。しっかりしてよ」
に言われなくても」
「烏丸のそう言う所むかつくわ」
「俺ものその姉目線好きじゃないな」
「あんたみたいな弟嫌だわ。…ともかく、の泣き顔を見るのだけはごめんなんだからね」

 そう言って、鞄を肩にかけても教室を出て行く。俺も今日はこれからバイトがある。その後、少し玉狛に顔を出して帰宅だ。いつも通りの道順を頭の中で思い返す。に彼氏ができるまでは、なんだかんだ言ってと俺の三人でよく帰っていた。途中、は本部へ、俺はバイトか玉狛へ、は自宅へ同じ地点で別れる。それも最近はなくなってしまった。のボーダーでの様子も帰りによく聞いていたため、ここ数週間のの様子が分からない。ランク戦の成績を見ようと思えば玉狛でも見られないことはない。けれど、それだけでは分からない、数字では表せないことを知ろうと思えば、本人から聞くしかない。どこが悪かっただとか、どこでひやりとしただとか、落ち込んでみたり喜んでみたり、ころころと表情を変えるから遠ざかっていた。物足りない、と思う。
 早く別れろ、とまでは言わないが、があの三年生と手を繋いだりキスをしたりそれ以上をしたりすると思うと、複雑な気持ちになって仕方がない。想像もしたくないくらいだ。こんなことならさっさとを自分のものにしておけば良かったと後悔するほど。



 もっと後悔することになるのは、その日の夜だった。
玉狛で用事を済ませて家に帰る頃には、もうとっくに暗くなっていた。はもう流石に帰って来ているだろう。あの先輩にここまで送ってもらったのだろうか。の家を知られるのも嫌だな、なんて自分勝手なことを思う。のことなら何でもそうだ。何一つ他の奴に教えたくなんてないと思っていた。
 家の門が見えて来たと思えば、その前に人影がある。街頭に照らされたその姿が誰か、遠目にシルエットだけでも分かる。だ。こんな時間に家にも入らず何をしているのだろうか。しかも自分の家ではなく、そこは俺の家の前だ。

?」
「あ…京介くん…」

 掠れた声でこっちを見る。街頭のそれほど明るいと言えない照明でも分かった。の顔は誰かに殴られたような痕があった。慌てて駆け寄り、その顔を確認する。唇の端が切れたのか、出血もしていた。髪も乱れているし、制服も汚れている。

、」
「あ、あはは…ちょっと、逃げ遅れて…」
、お前」
「だ、大丈夫、一瞬反応遅れただけだし、なんとも、なんにもされてない、まだ…」

 必死に弁解するように喋るは見るからに痛々しい。こんな時どう声をかけて良いか分からなかった俺とは逆に、多弁になる。けれど、喋れば喋るほどの声は震えて行った。段々言っている事も支離滅裂になって来る。
 後悔した。自分に腹が立った。もっと早く、あいつより先ににずっと好きだったとでも言えば、はあいつのものにならなかったかも知れない。そうすればこんな目に遭うこともなかったかも知れない。もう全部遅い。全部“かも知れない”になってしまうことばかりだ。沸々と怒りだけが湧いて来るものの、何に対してなのか、どうすればいいのか分からない。黙ってしまった俺に気を遣って、が何か話しかけて来るが耳に入って来ない。
 鞄を放り出して、ボロボロのを抱き締めた。

「怖かっただろ」
「だいじょぶ、」
は大丈夫じゃない時絶対そう言う」
「…京介くんは何でも知っているね」
「もう十六年一緒なんだぞ」
「そっかあ…」

 昔は同じくらいの背だった。いつの間にかどんどん身長差は開いて行って、いつしかは俺を見上げるようになっていた。抱き締めた身体は想像していたより華奢で、その細い肩が腕の中で震えた。も戦闘員だ、そこら辺の女子高生より鍛えているとは言え、男に力で勝てるはずがない。が強いのはトリガーを使っている間だけで、ボーダーから一歩外へ出れば普通の女子高生になってしまうのだ。
 やがて、ようやく泣き出したがぽつぽつと涙まじりの声で話し出す。教室で別れてから、はどこか学校の敷地内にある倉庫に連れ込まれたこと、そこで無理矢理行為を強いられそうになったこと、抵抗したら殴られたこと。それでも必死で逃げて、数時間うちの前で俺を待っていたこと。
 連絡して来れば良かったのだ。バイト中は携帯を確認できないが、終わってからから連絡があれば、玉狛に寄るのは後にできたかも知れないのに。…また、“かも知れない”だ。今更どうしようもないことばかりを悔いてしまう。今目の前にいるに気の利いた言葉の一つもかけてやれない。

「怖くて…」
「うん」
「怖くて、京介くんの名前を呼んだら、また、殴られた」
「……ごめんな」

 ぽんぽん、と背中を叩いてやると、またしゃくり上げる。涙は一向に止まらない。がここまで泣いている所を見るのは久しぶりだった。四年前に三門市が近界民から襲撃を受けて、の家族が死にかけた時以来だ。なんとか一命を取り留め、四年経った今ではさすがにすっかり元気だが。あれがきっかけで、もボーダーに入隊した。それからはどれだけランク戦で負けても、悔しくても、泣くことはしなかったのに。

「ばちあたったのかも」
「どんな」
「京介くんが好きだったのに、他の人と付き合った」
「………は?」

 唐突過ぎる告白に、流石に言葉が出ない。を自分からゆっくり引きはがすと、まだぽろぽろと涙をこぼしていた。

「もう、京介くんに甘えてちゃいけないと思って、離れようと、思って」
「なんで」
「邪魔になるでしょ?」
「なんの」
「京介くんに彼女ができたら」

 できるはずがない。俺だってずっと好きだったのはだ。を好きな間は、他の誰かを見ることなんてできない。俺が再び黙り込んだのを迷惑だと受け取ったのか、ごめん、と言ってまた泣き出す始末。
 俺の方こそ邪魔だったのではないか。彼氏ができたと嬉しそうに報告して来て、一緒に帰らなくなって、話す時間も減って、俺にあてていた時間をあの先輩にあてていたのではないのか。
 腫れてしまっている左頬にそっと触れると、はぎゅっと目を瞑る。当然だが左頬は熱感がある。これが段々青くなって余計目立つのだ。痛々しいそこを、ゆっくり撫でると、ぴくりと唇の端が反応した。痛かっただろうか。乾いた血の跡をなぞる。この様子じゃ口の中も切れていそうだ。
 はゆっくり瞼を開けると、俺を見上げた。まだ潤んだ目からは、ともすれば涙が伝いそうだ。

「最初から俺を選べば良かったんだ」
「…うん」
「いや、違うな」

 首を傾げると額を合わせる。不思議そうな目をした。今日はここまでだ。

「俺がもっと早くを選んでいればよかった」

 うん、と言ってまた静かに泣き出す。街頭が時々、ちかちかと点滅する。それに合わせて、に覆い被さる自分の影が揺れるのが見えた。の手が、ようやく俺の背に回る。もう一度しっかりと抱き締めて、好きだ、と言えば、私も、と泣きじゃくりながら返事が返って来た。
 その瞬間、もう二度とこんな風に泣かさないと決めた。もしこんなにも泣くことがこの先あったとしても、それを見て良いのは俺だけだと。








(2016/02/01)