分かり易く落ち込むのはだめだと、そう言われた。けれど落ち込まずにはいられないし、それを上手く隠すにはまだ人生経験が私には足りなかった。人に心配も迷惑もかけたくないし、愚痴を言いたい訳でもない。自分の中で上手く消化するのに時間がかかるだけで、誰かに寄りかかりたい訳ではなかった。けれど、そういう時に限って目ざとい人間もまたいるもので、面倒臭いことにその人間があれやこれやと小言を言うのであった。

「おい、聞いてんのかよ」
「うるっさいなあ…」

 次から次へと出て来る小言はもう殆ど聞き流していて、煩わしくて苛々しながらそう返すと、滅多に反論しない私に彼―――荒船は目を見開いた。
 失敗なんて誰でもするだろう。大きかろうが、小さかろうが。自分でも分かっていることにいちいち口出しをして来るから苛々するし、文句も言いたくなる。ああそうだな、その通りだな、と思えていたのは最初の頃だけで、最近は煩わしい以外の何物でもなかった。私は荒船のように優秀な訳でもなく、危なっかしければどんくさいしとろい。人に言われなくても自分が一番よく分かっていることだ。それを、あまつさえ年下に指摘されれば、いい加減ぶちんとキレてしまいたくもなるもの。さんが怒ることってあるんですか、と聞かれるくらい、普段の私がどれだけ呑気でも。

「…………」
「何よ、さっきまで散々エラソーに言っていた癖に」
「…さん、怒れたのか」
「どういう意味」
「いつもぼけっとしてんだろ」
「言い方」
「ぼーっとしてんだろ」
「全然変わってないんですけど」

 普段温厚な人ほど怒らせると怖いという。荒船が私を怖いと思うことはまずないだろうが、私を怒らせたことに対し何の反省の色も見せないことに益々腹が立った。

「そりゃ、荒船は私よりずーっとランクも上で、頭も良いし割と何でもすぐにやってのけちゃうし大層な野望をお持ちのようですけど」
さ、」
「私の親じゃないですから!!」

 今日ばかりは我慢ならなかった。例えランク戦でズタボロに負けてごっそりポイント持って行かれたとしても、そんなの荒船には関係のないことだ。入隊した時期が同じで、年は違えどもいわゆる同期とは言え、限度と言うものがあった。その中に嘘がひとつもないのがまた腹の立つことで、同じことを今日、違う人に指摘されていたらこんなにも腹は立たなかったかも知れない。
けれどまただ、また荒船なのだ。いつもタイミング悪く私が負けただとか失敗しただとか、そういう時に限って私の前に現れる。ここまで来ると嫌がらせのようなもので、別に私は荒船を師匠としている訳でもないのに、なぜそこまでぐちぐち言われなければならないのかと。
 さすがにもう今日はそれ以上何も言って来なかった。荒船に背を向けて何歩か歩いた所で名前を呼ばれたが、振り向いてやらない。出会ったばかりの頃はこうではなかった。雑だけれど一応敬語は使われていたし、他の年下たちと同じように先輩と呼んでくれていた。それがいつからだろうか、全く先輩だとは思われなくなっていた。そうなると更に私の扱いは雑になるもので、後はもうこの通りだ。
 これでもよく耐えたと思う。荒船に説教されるというのは、最近ではちょっとした名物になっていたからだ。下の子たちからは「またさん泣かされている…」と哀れんだ目で見られ、上の人たちからは「尤もだけどその辺にしといてやれよ」という空気を出すだけで実際助けてくれはしない。同い年の子たちは見て見ぬふり。それでも私は一度でも他の人に荒船を悪く言ったことはなかった。一方的にぎゃんぎゃん言われるだけで。

『…で、珍しく怒りを引きずっているわけだ』

 私の友人に全て矛先が向く。ボーダーとは無関係なのにこんな話を聞かせて悪いとは思う。けれど彼女も私が滅多に怒ることがないと分かっているので、事の重大さを何となく察してはくれたようだ。

「向いてないとかとろいとかどんくさいとか、そういうのは全部私、自分で分かってる!」
『うんうん』
「小姑かって!言いたかった!」
『言ってやればよかったじゃん』
「言えなかった…」
『言い慣れてないからね…』

 爆発しかけた私は、本部の隅でこそこそと電話をするものの、ヒートアップして来て声も大きくなって来たため、隠れているのも無駄になって来た。ずっとしゃがみ込んでいるのも膝が痛いため、一頻り吐き出して立ち上がる。眩暈がした。
 荒船が単に私の悪口を言っているわけではないことは分かっている。全部正論、いつだって正しい。進学校に通う彼は、現役大学生の私よりきっと頭もいい。だったら、だ。私なんかにいちいち突っかかって来る必要などない。もっと有望な子たちを鍛えてあげた方がボーダーのためにもなる。いくら知り合って長くても相性というものもある。荒船は私を教えるのには向いていない。ちょっとしたことですぐ落ち込むような人間に、上からああだこうだ言われてもモチベーションアップには繋がらないのだ。叱られて伸びるタイプと褒められて伸びるタイプがいるが、少なくとも私は前者ではない。

「意図が分からないのが余計腹が立つ」
にそこまで言わせるのはよっぽどだよ…』
「もうやだ、明日もまた多分顔合わせる羽目になる…」
「誰が明日まで待つっつった」
「ひ…っ!!」

 携帯以外の所から生の声がして思わず小さく叫び声を上げる。誰もいないと思っていたのに、気配もなく現れたそれに、新品の携帯も床に落としてしまった。その衝撃で通話も切れてしまう。
 声の主なら知っている。さっきまで私に小言を繰り返していて、私がキレ返した相手だ。大体どんな顔でいるのか予想がついてしまい、振り返ることがとてつもなく怖い。携帯を落として空になった両手は頼る場所もなく、胸の前で握りしめることしかできなかった。固まる私の肩にぽん、と手を置く荒船に、私はますます肩を強張らせた。

「意図が分からない、だぁ?」
「………盗み聞きはよくない、」
「そっちが勝手に電話してんだろうが」
「う……」

 じわじわと肩に乗せられた手に力がこもって行く。痛い、なんて言える空気ではなかった。先程は私が苛々していたのに、今度は後ろから荒船が苛々しているのが伝わって来る。それもよく分からないのだけれど、とにかく怖くて顔なんて見れたもんじゃない。けれど多分荒船は私が振り返らないことに益々苛々しているのだと思うと、私が後ろを振り向くのも時間の問題のような気がした。

「訳も分からねえまま今日まで俺の話聞いてたのかよ」
「…………」
「返事がないのは肯定だな」
「だ、だって…!」

 泣きそうになりながら振り返って、ようやく肩の重みがとれた。けれど私は俯いたまま。荒船がどんな顔で私を見下ろしているかなんて分からない。いつものように上から降って来る声にびくびくするばかり。

「俺が憂さ晴らしに口出ししているとでも思ったのかよ」
「そんなことは、思っていないけど…」
「けど、の続きは」
「……私のこと馬鹿にしてる」
「…なんでそうなんだよ」

 一層低くなった声に、とうとうたまらず我慢していた涙がぽたりと落ちた。「またさんが泣かされてる」と言われても、実際泣いていた訳ではなく、流石の私も人前で涙を見せるようなことはしなかった。けれど正真正銘、今は泣いている。追い込まれて追いこまれて仕方ないのに、更に追い討ちをかけて来る荒船に嫌気がさしそうだ。

「なんで心配してるって思わねえんだよ」
「……は」
「馬鹿にしたことなんか一度もねえよ」
「嘘」
「こんな下らねえ嘘ついてどうすんだ」

 そう言いながら伸ばして来た手に、反射的にぎゅっと目を瞑る。すると、一瞬ためらって、その手は私の頭に置かれる。さっきとは違って、あまり重みを感じない。そっと置かれただけだと分かって、ますます意図が分からない。けれど、さっきまでとは荒船の纏う空気も変わり、少しだけ緊張の解けた私は少し呼吸ができた気がした。

「…だって、なんで荒船が私の心配なんかするの」
「…さんって本当に馬鹿だったんだな」
「しみじみ言うことじゃない…」
「もうさっきの威勢は出せねえようだな」
「荒船みたいに怒り慣れてないし」
「挑発だけ一丁前になんな馬鹿が」
「年上なんですけど」
「一応って頭につけとけ」

 酷い、そう言って顔を上げると、もう荒船は怒った様子はない。代わりに、特になんの表情もない、普段の荒船がそこにはいた。違うのは、私の頭に置かれた手だけ。目が合うと、その手が今度は目元に移動する。片手で私の両目を塞いだ荒船が、「さん」といつものように私を呼ぶ。視界は真っ暗なまま「なに」と返すと、不意に耳元に何かが近付く気配がした。身を捩ると今度は空いている手で腕を掴まれて逃げられない。

「色々心配してんだよ。この意味くらい考えろ」

 くらい、と言われたって。視界も塞がれてその顔色も窺えないまま、その表情を映すこともできないままでは考えても理解が広がらない。黙り込んでしまえば、ようやくその手が外される。けれど結局顔が見えた所で何を考えているかなんて私には分からなくて、相変わらず恐る恐る荒船の表情を窺えば。

「何でもかんでも顔に出すな」

 この上なく無茶な注文をされるだけ。荒船はもうちょっと顔に出してよ、と言えば、するかよ、と返される。
 結局よく分からなかったけれど、ひとまず荒船の機嫌は戻ったようだった。私の方は未だ腑に落ちないことだらけだけど、蒸し返しても良いことはない気がするので、これ以上深追いはしないことにする。ただどうしても、一連の発言を深読みせずにはいられない。それを言ったら、また「馬鹿か」と言われるのだろうか。







(2016/01/26)