飲み会の途中で、私は上の人への挨拶もそこそこにタクシーに乗り込んだ。途中でコンビニに寄って、スポーツドリンクにゼリーにヨーグルトに、果物も売っていたから少々値は張るが籠に突っ込む。いつもはちゃんと店員さんにありがとうを言うのだけれど、今日だけは疎かになったのを許して欲しい。そしてもう一度タクシーに乗り込む。目指したのは玉狛支部だった。タクシーの運転手さんへのお礼も早口になる。転がるようにタクシーを降りて、急いで支部の入口に向かう。インターホンを無駄に連打する。

「烏丸くん!烏丸くん平気!?」
「…あれ、さん?」
「からす、まくん…?あれ…?」
「…元気ですか?」
「や、烏丸くんこそ…」



***



 謀られた。飲み会の途中、迅くんがこそっと数分抜けたと思いきや、慌てた様子で私に耳打ちをした。京介が高熱出して支部で寝込んでいる、と。家族に伝染すといけないから支部にいる、という理由は妙に納得できて、「俺も支部長も抜けられないからさん頼みます」なんて言われれば、行かないわけにもいかず。役職付きでも何でもない私は簡単に飲み会から解放された。
 元々お酒も飲まないし煙草も嫌いだし、社交辞令も苦手で本音と建前が同じの私はこういう場には向かない。ワンクッションのために入って欲しい言われることのある接待も苦手で断り続けている。そういうわけで、迅くんからそんな頼みごとをされたのは正直有り難くもあった。不謹慎だけど、と思ったのに。

「俺は酔い潰れたさんをタクシーに放り込んだから支部の空き部屋に寝かせてやってくれって言われましたけど」
「私は絶対お酒飲まないよ…」

 件の烏丸くんは高熱なんて出しておらずぴんぴんしているし、ありもしない嘘を流されているし、そうだ、何より木崎くんが支部にはいるはずだった。“だったはず”が尽く覆されている。玉狛支部の建物には私と烏丸くんだけであった。買って来たスポーツドリンク類は無駄になってしまったと言う訳だ。ただ、風邪なら市販の薬を飲まずに明日受診する方がいい、と薬に手を伸ばさなかっただけましだった。月末の私のお財布の中身は酷く寂しいのだ。風邪薬は意外と高い。
 それはさておき、私はここに来るまで随分恥ずかしい思いをしてしまった。コンビニのお兄さんにもタクシーの運転手さんにも悪いことをしてしまった。そして何より、慌てて連打したインターホン。もし本当に烏丸くんが寝込んでいたとしたら、インターホンの連打なんて喧しい以外の何物でもない。
 一体迅くんは何を考えているのだろうか。単に私を飲み会から解放してくれた訳ではないだろう。悪い子ではないけれど、私にそんな気を回してくれる理由もない。飲み会が嫌いな事は知っているとは思うが。
 してやられた、と出されたお茶を口にしながら項垂れていると、烏丸くんは隣で怪訝そうな顔をした。私の顔を覗き込む、その瞬間にソファが軋む。

「な、なに?」
「…すごく、煙草臭いすね」
「あー…ごめんね、喫煙率高いんだ、あの飲み会。ごめん、帰るね」
「帰るんですか」
「烏丸くん体調不良じゃなかったし、私も酔い潰れてなんかないし」
「でももう遅いすよ」
「もう一回タクシーを呼ぶお金くらいは…」

 本当はないけれど、これ以上お邪魔する訳にも行かない。烏丸くんだって家に帰らないといけないはずだ。何なら、烏丸くんの家を経由して私のアパートに戻ってもいい。けれどそんな私のお財布事情を察した烏丸くんは「月末ですけど」と言う。なんて勘の良い高校生だろうか。
 私は戦闘員じゃないから、その時々の成果に対してのバックがなければ論功行賞だって望めない。夜勤はあるものの、結構毎月ぎりぎりで生活しているのだ。それにしても、高校生にお金の心配をされる二十代ってどうなんだろう。確かに烏丸くんはA級隊員である上にバイトまでしていて、もしかすると月々の手取りは私より上なのかも知れない―――いや、今問題なのはそういうことではなくて。

「泊まって行ったらどうですか」
「え?」
「迅さんがそんな根回ししたってことは、きっと今日は支部長たち帰って来ませんよ」
「うそ」
「そんな気がします」
「待って、気がするって言うのはすごく不安」
「帰って来ません」
「…言い直せって言っているんじゃなくてね」

 ここで言われた通りに泊まって迅くんに貸しを一つ作るのも癪と言うか、まんまと罠にはまるのは何だか癪な気がした。烏丸くんと私の関係なんて多分見透かされているだろうなとは思っていたが、まさかここで謀られるとは思っていなかった。もうしばらく迅くんの言うことは信じないと決めた。別にこんなことをされなくても、二人でいる時間くらい作ろうと思えば作れるのだ。人の世話にならなくても、変なお節介を焼かれなくても。けれどこれは世話とか節介じゃない、単に面白がられているだけに違いない。そう思うと無性に腹が立って来た。
 ほら、帰るよ。テーブルの上に置いたコンビニ袋を持って立ち上がる。けれど、それを制するように「さん」と私を呼ぶ烏丸くんは立ち上がらない。やや遅れて、私の手首を引っ張る。特に力を込められてもなかったのに、すとんと簡単に烏丸くんの隣に腰を下ろしてしまった。落ちた、とでも言いたくなるような流れで。不思議に思って烏丸くんを見てみるけれど、それ以上何も言わずにじっと見つめ返して来る。

「か…烏丸くん…?」
さんって煙草吸うんですか」
「……私、吸ってたことある?」

 今更すぎる質問に、思わず返答が遅れる。私は一度だって煙草なんて吸ったことはない。もう烏丸くんと出会って大分経つと言うのに、何をとぼけたことを聞いて来るんだと思った。私の煙草嫌いは烏丸くんがよく知っているはずだ。呆れていると、いきなり何の前触れもなく私を抱き締めて来た。あまりの勢いにバランスを崩してソファの上に二人して倒れ込む。手にしていたコンビニ袋は床に落ちて、ゴトンと音がした。中身が飛び出しているのが横目で少しだけ見える。
 大きな体が突然圧し掛かって来て、呼吸器官を圧迫された私は上手く声も出ない。途切れ途切れに名前を呼んで、重い、と言いながらその体を押し返していると、ようやくふっと軽くなった。肺いっぱいに空気を吸い込むと、情けないことにむせてしまった。けれど咳き込む私をよそに、半ば押しつけるようなキスをされる。咳のおさまっていない私はそれに応えることもできず、ばしばしと背中を叩いてとりあえず離れてくれという合図を送る。けれど、そのサインに気付いていながら離れない。何か、機嫌を損ねることでもしただろうか。また酸素の足りなくなった頭の片隅でぼんやりと考える。

「っは、げほっ…!」
さん、さん」
「ちょ…っと、あのねぇ…!なんのつもり、」
さんからさん以外のにおいがするのが気に食いません」
「は……」

 目の前には眉間にしわを寄せた顔。滅多に見ることのない表情に、私の呼吸も一瞬止まる。なんて顔をしているんだ、と思った。別に他の人のものになったわけでもない、煙草なんて誰でも吸うし、お酒なんて誰でも飲む。ただ、私がそれに当てはまらなかっただけで。もし私が煙草を吸う人間だったら煙草の味のキスだって覚えていたかも知れないのに。たったそれだけで、なんで私がまるで別れ話を切り出したみたいな顔をしているんだ、この子は。

「…私が今日、ここに泊まったら満足?」
「……話をすり替えようとしていませんか」
「していません。ね、どうなの」
「…満足です」
「分かった」

 そう言って烏丸くんの首に腕を回して、一度だけ短いキスをする。すると今度は、呆気にとられたような顔。私といる時だけ、烏丸くんはいろんな顔を見せてくれる。普段は表情筋なんて知らないかのような顔をしているけれど、むっとしてみたり、ぽかんとしてみたり、時々年相応な表情を見せてくれる。それが、私にはたまらなく嬉しかった。
 やられたらやり返せではないけれど、やられっぱなしでは面白くない。思考の停止している烏丸くんの下からするりと抜け出して、床に散らばったスポーツドリンク類をコンビニ袋に戻す。結局無駄になってしまったけれど、ゼリーもヨーグルトも果物も、陽太郎くんのおやつくらいにはなるだろう。今日一晩借りるお礼にこれらは置いて行こう。

「烏丸くんが嫌がるから、煙草の臭い落として来る」
「お風呂ですか。場所教えます」
「…言っておくけど一緒には入らないからね」
「えっ」
「えっ、じゃないから」

 なんだその、一緒に入る気満々だった「えっ」は。初めて聞いたみたいな「えっ」は。大体、この時間なら烏丸くんこそお風呂を済ませているのではないか。するとまだです、なんて返事が来る。しかし、人様の支部でやらかす訳にはいかない。私だって大人だ、その辺はきちんと弁えている。けれど目に見えてがっかりしている烏丸くんにフォローを入れないのも大人らしくない。
 小さく、聞こえないように溜め息をついて、烏丸くんの腕を引く。耳を貸して、と。

「次、うちに来た時ね」

 だから今日はここに泊まるだけ。そう続けると、烏丸くんは私が囁いた方の耳を押さえて、やや赤くなりながら私を振り返る。そんな烏丸くんを見て、言った私も今更恥ずかしくなってしまった。これ以上見つめ合っているときりがないので、「ほら、お風呂どこ」と案内を促す。そうしてはっとしたらしい烏丸くんは、不自然に咳払いをして「こっちです」と言って私の前を行く。その背中を見ながら、一緒に入っちゃえばよかったのに、と悪魔の私が囁くけれど、頭を一つ振ってそんな誘惑を吹き飛ばした。







(2016/01/23)