大学卒業と共にボーダーを辞めることは、入隊する時に親と決めた約束だった。遊びでやっている訳じゃない、いつだって本気だったけれど、私の両親はボーダーをこれからも続けることを許してはくれなかった。隊に迷惑をかけてしまうことは分かっていたけれど、母親の涙を見てしまえば「それでも続けたい」とは言えなくなって、私は直属の上司に三月いっぱいで辞めることを伝えに行った。
 そこから噂が回るのは早かった。隊のみんなが口を滑らせるとは思えないけれど、人の口に戸は立てられない。どこから漏れたのか、この間まで本部にいた烏丸くんが珍しく慌てた様子で本部にいる私の所へやって来た。

「辞めるって、本当ですか」
「本当だよ。だから普通の就活してたし」
「ボーダーと関係ない仕事ですか」
「まあ、うん…」

 烏丸くんとの最初の接点と言えば、彼の現在通っている高校が私の母校だというくらいだったが、本部にいた頃は彼がA級に上がるまではよくランク戦もしていたものだ。あっという間に駆け上がってしまい、しかも玉狛へ異動した彼とはめっきり会わなくなっていたのだが。そんな所までもう話が伝わっているとは思わず、流石に面食らった。
 作戦室の前で立ち話もなんだから、と今は空の作戦室に彼を通す。私の私物は少しずつ片付けていて、デスクの周囲が散らかってしまっている。片付けているのか散らかしているのかどっちだ、とこの間からちくちくと小言を言われているが、片付かないものは仕方ない。こんな小さな部屋によくこれだけのものを置いていたものだ、と段ボールに荷物を詰めながら思っていた。

「親に泣かれたら続けるなんて言えなかった」
「ボーダー入隊も反対されてたんですっけ」
「そ。私のランクが上がっても喜んでくれたことは一度もなかったなあ」
「…………」
「だからこれから親孝行な娘になるつもり!それだけ!」

 明るく言ってみても、烏丸くんは黙り込んでしまう。
私は烏丸くんの師匠でもなんでもないし、ライバルと言うには私に力がなさすぎた。それでも、入隊当初少し世話を焼いていたからか、懐いてくれているのは知っていた。だから今でも烏丸くんは私を先輩と読んでくれているし、玉狛へ異動になった時には、今の烏丸くんのように私も彼の元に押し掛けたものだ。
実力も離れて行って、物理的な距離も離れてしまって、それ以外の距離も離れたのだと思っていた。私にとっては大事な後輩の一人で、確かに何も言わずにここを去るのは心苦しかったけれど、タイミングが合わなければそれも仕方がないこと。三門市を出て行く訳ではないから、その辺でばったり、なんてこともなきにしも非ずなのだし、なんて自分に言い聞かせていた。それに、どんな顔をしてこの件を伝えればいいのかも分からない。多分、それが一番の本音だ。

「…先輩」
「なに」
「ランク戦しませんか」
「あはは!無理無理、10本やるとするでしょ、10-0で私の負けが見えてるじゃん。負けの見えている勝負なんてしたくないの。昔から言ってるでしょ」

 私の負けず嫌いを知っていてそんなことを言っているのだろうか。どうも烏丸くんらしくない。何をそんなに焦っているのやら、普段の彼らしかぬ言動に私は疑問を抱かざるを得ない。
 うちの隊がB級でもそこそこ、上位まで食い込むことができたのは隊のみんなの力だ。私一人を見れば、個人だってぱっとする成績ではない。拾ってくれた仲間に感謝するしかない。だから、きっとまた他の誰かを隊に引き入れれば、私以上のランクの人間を引きいれることができれば、この隊はもっと強くなる。私がいなくたって。
 誇らしくもあったし、同時に辛くもあった。私がいなくても成り立ってしまう、その現実はもうすぐそこまで来ていることが。

先輩は強いです」
「烏丸くんに言われるとなんだか厭味だなあ」
「厭味じゃないっす」
「…ありがとね」

 でも事実、私は強くなんてない。本気で続けようと思えば、両親を振り切ってでもボーダーに残った。大学を卒業するまで、という期限を両親に突き付けられていたことに、昨年頃からだろうか、ほっとしている自分もいた。私は卑怯な人間だ。自分がこれ以上強くなんてなれないことを悟ってしまって、限界を見てしまって、逃げたくなった。下からはどんどん若手が迫って来ていて、どんどん新しい名前が目立つようになって来て、私はいずれ霞んでしまう。それなら今の内に、と思ってしまったのも事実だ。何もランクだけが全てではない。けれど防衛線が最大の任務である以上、強くなければならない。戦力であり続けなければならない。私は今以上の強さを手に入れられる自信がなくなってしまった。そんな人間は、ここには不要で邪魔なだけなのだ。

「烏丸くんはもっと強くなれるよ」
「…………」
「先輩が言っているんだから」
「じゃあ」
「うん」
先輩の元に届くくらい、強くなります」
「…うん」

 ボーダーを辞めてしまえば、内部事情なんて入って来ない。“友達”と“仲間”は別だ。それを意味する言葉に、私の胸がちくりと痛む。私は、部外者になる。烏丸くんの先輩でも何でもなくなる。それはなんだか、とても寂しいことのような気がした。

「それから」
「うん」
「これからも時々でいいんで、会って欲しいです」
「え?」
先輩とこれで終わりなんて俺は嫌です」

 思いもよらぬ言葉に、今度は私が言葉を失くした。はい、とか、いいえ、とか、そんな簡単な言葉も出て来ない。頷くことも、首を横に振ることもできない。要するに、固まってしまった。寂しい気持ちを隠すように張り付けて来た愛想笑いが剥がれる。
 社交辞令―――そんな言葉が頭の中を過るけれど、今ばかりは冗談を言っているようには思えない。けれど、真に受けて「そうだね」なんて言って「嘘ですけど」といつもの調子で言われてしまえば私が恥ずかしいだけだ。どこまでが本当だ、どこからが嘘だ。計りかねる今日のこれまでの烏丸くんの発言に、私は混乱する。

「嘘じゃないですよ、先輩」
「いや、ちょっと待って」
「嘘じゃないです」
「う、うん…」

 詰め寄って来る烏丸くんに気圧されて、思わず後ずさる。嘘なのでは、と疑っている私の気持ちすら見透かされていたらしい。いつまでも可愛い後輩だと思っていたら大間違いだったとでも言うのか。
 分かった、と言ってへらりと笑うと、烏丸くんは少しむっとして見せる。

「冗談でもないです」
「わ、分かってるって」
「分かってないです」

 するりと、全く警戒していなかった私の左手に烏丸くんが自身の手を絡める。あまりにも自然に捕えられて、すり抜ける隙もなかった。視線を右へ左へ彷徨わせる私に、追い討ちをかけるように彼は言う。好きだって言ってるんです、と。それを言うためにここに来たんです、と。
 そんなことを言われて、私が逃げられるほど強い人間だと思っているのだろうか。今すぐこの手を振り払って、部屋を飛び出して行けるような人間だと思っているのだろうか。それをできないことを知っているのでしょう、と問い掛けたくなる。知っていながらそこまで言う彼もまた卑怯だ。
 ここ最近、ずっと気が重かったのに。後ろめたい気持ちもいっぱいあったのに。いろんな気持ちに板ばさみになったいたのに。全部、吹き飛んでしまったではないか。

「私、やっぱり弱いよ」
「…そうですか」

 ほら、触れる唇から逃げられなかった。





(2016/01/12)