記憶がない、ということは、それだけで自己のアイデンティティを揺るがす大きな問題だ。私がこの本丸の主に着任すると共に、記憶は全て消された。淡々と日々の業務をこなすだけの日々、自分が何者かも分からず、どこで生まれ、どんな人たちに囲まれ、どんな生活をして来たのか―――何一つ分からないまま、まるで機械のように動き続ける。悲しいかな、それでもお腹はすくし、眠くなるし、息をしなければ生きることができない。死ぬ、ということだけは本能が回避している。

「まーた暗い顔してるんですか?」
「私はいつもこんな顔です」

 私と同じく記憶がないという鯰尾は、ひょいと私の顔を覗き込んだ。記憶なんかなくてもなんとでもなる、という彼は、まるで私とは正反対だ。けらけらとよく笑い、明るいのが取り柄。知らない所では何か考えているのかも知れないが、それを表に出さない、人に察することをさせないというのは、強い。私はどうしても悲観的になってしまうのだ。今、私の中には何もなく空っぽで、懐かしむ思い出も、惜しむ日常もない。積み重なっていく流れ作業の日々は記憶の箱を満たしてはくれない。
 家族はいたのだろうか、私に優しくしてくれる人はいたのだろうか、友人は、恋人はいたのだろうか。私がいなくなって、寂しく思ってくれる人間はいたのだろうか。私が知っているのは自分の名前と生年月日だけ。他は何も必要ないと、政府に切り捨てられてしまったらしい。

「主は笑ったことがありませんね」
「面白いこともないのに笑うことなんてありますか」
「わー、鶴丸さんが聞いたら落ち込みますよ」
「…そうかしら」
「そうですよ」

 当面の目標は主を驚かせることらしいですから、と彼は続ける。
 ここの居心地が悪いかと言われれば、そんな事はない。一人ぼっちではないし、毎日誰かが傍にいる。彼らは本当によく働くし、こんな私に文句も不満も言ったことがない。それどころか主、主、と、その器などない私に近付いてくれる。だが、その優しさが何より辛い。私には何もないのだ、何も。ふとした時に感じるのは孤独。彼らがいるというのに、私はいつも孤独なのだ。きっとそれは私が彼らを本当の意味では信用していないからで、心を開いていないからだ。だって、どうやって信用しろというのだ、こんな空っぽの人間を主と呼び、使われることを喜んでいることなど。
 上の人間が下の者を信用しなければ、そこに良好な関係などありはしない。身体のどこかに染みついているのであろう、私の記憶にない経験が、そう告げる。

「それじゃあ主、面白いことをしましょう」
「面白いこと?」
「楽しいことでも良いですね」
「ちょっと待って、何を急に…」
「俺にとっては急な事じゃありませんよ、ずっと考えてたことです。どうすれば主が笑ってくれるかなんて」

 そう言っていつものように笑うと、私の手を掴んで廊下を走り出した。全速力で走る鯰尾に、私の足はもつれそうになる。それでも止まることなく彼は走り続けた。擦れ違う誰もが驚いた顔をして私たちを見る。呆気にとられて誰も追い駆けて来ようとはしない。いつの間にか景色は本丸を飛び出し、門の外へ。ここへ来て以来、ずっと出ることのなかった外の世界。一歩外へ出て、それでもなお走る。肺が悲鳴を上げる、目が回る、足が引き攣る、それでも引っ張られるがままひたすら走った。
 通り過ぎて行く景色はどれも見たことのないもので、けれどゆっくり眺めている暇なんかない。私の腕を引く鯰尾は私を振り返ろうともせず、行き先を未だ告げない。とうとう息もできなくなって来たその時、限界を感じた足がもつれて鯰尾を道連れに派手に転んだ―――その瞬間、視界は反転し、ばしゃん!と水の跳ねる大きな音が耳に飛び込んで来た。それと同時に口の中にもごぽりと水が浸入し、そこでようやく川に転落したことを察した。

「げほっ!!ごほ、うっ…!」
「わーっ!主大丈夫ですか!?」
「だ、いじょぶじゃ、な…っ、げほごほっ、なんのつもり、げほっ!」

 鼻の奥がきんきんと痛い。口だけでなく鼻にも大分水が入ったようだ。涙目になりながら私と一緒に転落した鯰尾を睨む。道連れにした割には、彼はまるで平気そうにしている。全身びしょ濡れなことに変わりはないが、平然としていた。そんな彼が、私に問う。

「…苦しいですか?」
「あたりまえ、」
「俺も苦しいです」

 伸べられた手が、私の頬に触れた。濡れた頬と濡れた手、その二つは吸いつくようにべったりとくっついた。珍しく真面目な顔をした彼は、真っ直ぐに私を見る。
 未だ川に浸かったままの体は冷えて行くのに、なぜか冷たいと感じない。さっきまで全速力で駆けていたせいだろうか。足もまだ感覚を取り戻していないようだった。

「俺も骨喰も苦しいです」
「…………」
「でもどうにもならないことなんですよ」
「……でも」
「やり直すことなんてできないんです」

 それはまるで、自分に言い聞かせるかのような言葉だった。いつもの彼からは考えられない後ろ向きな言葉が、私の胸を抉っていく。
 それならなぜ、彼は笑っていられるのだろうか。苦しいと言いながら、戻れないと言いながら、なぜ。私にはどうしてもできないのだ、それを楽観的に捉えて今日を生きることなんて。彼らからすれば、私のこれまで生きて来た時間なんてほんの一瞬なのだろう。それでも私を形成する大切な時間だ。そこで関わった人たちも、関わった出来事も、何もないなんてあまりにも寂しい。その寂しさを忘れて笑うことなんて、とてもじゃないが私にはできない。そうするための時間が、あまりにも足りないのだ。

「でも、寂しいの…」

 ずっと口にしなかった言葉。言ってしまえば、終わると思っていた。それこそ引き返せないほどの悲しみが溢れると思っていた。受け止めてくれる人間は誰もおらず、私の中だけに閉じ込めていた感情。そのたった一言を吐き出してしまうと共に、両目から水とは違う温かいものが流れ落ちた。

「だから、主には俺たちがいます」

 こつん、と額がぶつかる。涙よりもずっと温かい彼の体温が、額を通して伝わって来る。
審神者になった時から、もう普通の人間には戻れないことを分かっていた。恐らく、それも納得の上で記憶をなくす前の私は引き受けたのだろう。なぜ引き受けたかなんて知らない。審神者になる前の私は、最早私であって私でないのだ。鯰尾もそうなのだろうか。記憶のない部分の自分は、もう別の自分として受け入れているのだろうか。何百年と時を経て、受け入れることができたのだろうか。一体、どれだけの時間を費やして。
 両の頬を包む手のひらは優しい。この手はいつだって、私を掴んでくれる。彼らの方を向かなくても、心の底から信用していなくても、離すことをしなかった。私の手を引いたまま、ここまで来てくれた―――信用してくれ、と言われているようだった。

「自分から一人になって行かないで下さい。俺に骨喰が、骨喰に俺がいたように、主にも俺たちがいます」
「なんで……」
「あなたが俺の主になった瞬間、最後までご一緒することを決めたんです」
「こんな、私なのに…」
「俺にとっては唯一の主ですよ」

 だから泣かないで下さい、彼はそう言って笑った。笑って下さい、と続けた。そう言いながら、彼も泣きそうではないか。私も鯰尾の頬に手を伸ばすと、苦笑いになった。
 私だけではなく鯰尾も、そして骨喰も空っぽなのだ。空っぽながら何かを掴もうとして生きている。鯰尾にとってはそれが私だったのかも知れない。主と言う存在で心の虚を埋めようとしただけなのかも知れない。私の中に彼自身の存在意義を見出そうと。一度失われてしまった記憶は戻らない。もしもあの時、と思ってみた所で何も変わらない。私たちはそんな歴史修正を阻止しようとしているのだから、願ってはいけないことだ。“あの時”をやり直せたら、なんて。それを願った瞬間から、私は反逆者になる。時間は巻き戻せないし、止めることもできない。それなら、この空っぽの記憶の箱を埋められるのは今から重ねて行く時間だけなのだ。

「鯰尾」
「はい」
「生きるのは、苦しいわね」
「…はい」
「でもあなたがいるなら、生きていけそうな気がして来たわ」

 何も、日々を重ねて行くのが、記憶を作っていくのが一人でなければならないと言う訳ではない。これから何年、何十年ここで過ごすのかは分からない。審神者として生きるのかは分からない。この役目を終えた時、また私は審神者であった時の記憶を消されるのかも知れない。それは私にも鯰尾にも、誰にもどうすることもできないのだ。
 けれど、これまでのことが分からなければ、そんな先のことはもっと分からない。それなら悲観するのではなく、今を生きて行くしかない。無駄に時間を重ねて行くのではなく、一秒一秒に意味を見出しながら。

「それなら良かったです」

 鯰尾が笑う。記憶の時計が動き出す。私は、もう一度だけ泣いた。




そして世界は回り出す


(2015/06/04)