「かしこまりました」

 時間にして一秒も満たない、けれど確実にその返答には躊躇いの間があった。
 いつも通りの笑みを浮かべる一期一振に、私の胸はちくりと痛む。今日もまた彼に遠征の二文字を言い渡してしまった。胸が痛むのは私に疚しい気持ちがあるからだ。彼を自分から遠ざけたい気持ちが。
 私は人と関わるのが大層苦手で、特に彼のように本心を隠すことに長けた人物に接することは疲労さえ感じる。だからつい、遠征でここから離れさせてしまう。それについては、人の心の機微を読み取ることが得意な彼は気付いている。先程の躊躇で確信した。気付いている癖に指摘せず、「主の命ですから」とにこやかに言うそれは、果たして優しさなのか皮肉なのか。

「あ、あの」
「はい」
「…いや、なんでも…」
「そうですか」

 呼び止めた所で何も言えない癖に、私の声は空回る。嫌いな訳ではないと、それは伝えた。だからと言って突然彼への接し方が変わる訳でもない。彼の私への態度は尚更。いつまでもこのままではいけないことなど分かっている。いつかは出陣で彼の力が必要になることも分かっている。儘ならないものだ、自分のせいで周囲に気を遣わせていることも気付いているというのに。
 もう何も話すことはない。いつもならすぐに部屋を出ていくはずなのに、珍しく彼はまだ部屋を去ろうとしない。もう戻って下さい、と告げようと顔を上げた。すると、彼は真面目な顔をしてこちらをじっと見ていた。思わず目を逸らそうとしたのに、その瞬間を隙と見て捕らえられる。私の左手が彼に捕まってしまった。手首の脈がどくんどくんと波打つ。

「あ、の…」
「遠征の間、貴女は私を忘れておいでですか」
「え…?」
「傍に置いても遠ざけても変わりますまい」
「そ、そうでしょうか…」

 そう返しながらも、内心彼に同意していた。結局、遠征に出した所で考えているのは彼のことなのだ。知らず知らずの内に縛られたまま解放されない心は晴れず、どんどん靄がかかって行くばかり。特に先日の件があって以降は、彼の目を見るどころか顔をみることすらできない。何か言いたげにしているものの何も言おうとしない彼の視線から、最近はずっと逃げていた。逃げていたのは彼がここに来てからずっとだったが、ここまであからさまに避けたことはなかったのだ。
 一歩後ずさるも、同じようにして距離を詰めて来る。さすがの一期一振も我慢の限界という所なのだろうか。けれども、私がどんなに言葉巧みに誤魔化した所で、彼が納得してくれるとは思えない。私に上手く使える言葉なんてないのだ。黙ってしまった私に、彼の方から口を開く。

「遠くにやっても同じなら、一度傍に置いてはどうですか」

 息が詰まる。声もまた同じく。ひゅっと飲み込まれた空気が、喉の奥で引っ掛かった。
 問い掛けというのはどんな言葉よりも狡い。ほとんど頷くことを強制されているのと同じだ。そんな風に言われたら、私が断れないことを目の前の男は知っている。誰に対しても何かを強く言うことのできない私の本質をよく知っているのだ。

「傍に、て……」
「今のままでは、私も主のことはよく分かりませぬ」
「うそ」
「何がです」
「なんでも、分かってるような顔をして、」
「貴女の勘違いでしょう」

 何も分かってなどいませんな、と続ける。分からないなら分からないままで良いこともある。私は分かりたくないこともある、知りたくないこともある。彼に踏み込まれたくない領域だってあるのに。ただ主従というのなら、そこまで踏み込んで来る必要はない。主としての顔を知っていればいい。けれどそうではないのだ、彼が言わんとしていることは、それを飛び越えた先の話なのだ。その目が、その口が語る。私のもっと奥底を覗かんとしている。
 心臓がまた速くなったのを感じた。握られたままの左の手首が燃えるほど熱い。体中を循環する血液の温度も上がる。それ以上近付かないで、というたった一言がこの唇で紡げない。

「何がしたいんですか」
「それを問われますか」
「私だって、あなたのことなんて分かりません」
「分かりたくない、の間違いでは」
「だから…っ、そういう…!」
「貴女のことを知りたがるだけで遠ざけられてしまうなら、私はどこにいれば満足なさいますか」
「それは…っ」

 喉がカラカラに渇いている。声も掠れて上手く喋れない。酸素を求めて変な呼吸繰り返す。「もう離して下さい」、とそれだけ言おうとした。掴まれた手を振りほどこうとした。けれど、見上げた先にある彼の目が余りにも寂しそうで、また全てを振り払う術を私はなくしてしまう。
 絆されているのだろうな、という自覚はあった。付け込まれているのだろう、とも。けれど突き放せないのも、強く拒めなかったのも私なのだ。
 空いた片方の手で、肩を押し返す。その手をまた、掴まれる。

様」
「…それは、ずるい、ずるいわ」

逃げられない、逃がさない、そんな包囲網を作られたようだった。








(2015/05/26)