プリズム




「早退…ですか」
「朝から調子悪かったんだけど無理してたみたいでなー」

 いつも昼休みに自販機前で絡んで来る先輩が今日はいないと思えば、風邪を引いたのだと言う。おかしいと思ってそれとなく部活後に菅原さんに聞いてみればこれだ。昨日はそんな様子などなかったというのに、髪でも乾かさずに寝たのだろうか。ちなみにああ見えて先輩は進学クラスのため、“バカは風邪引かない”は当て嵌まらない。

「一人で帰れるとか言ってたけどそんな風には見えないし、結局親が迎えに来てたよ」
「そんな悪いんスか」
「早退するくらいだからなあ…」

 熱は高いのだろうか、咳は辛いのだろうか、喉は痛いのだろうか。あの元気な先輩が体調不良だなんて信じられず、弱っている姿も想像できない。
 しかし、先輩に連絡をとろうにも連絡先を知らない。自分の携帯に入っている連絡先といえば、連絡網用のバレー部の部員と家族くらいか。毎日自販機の前で会うのが当たり前になっていたため、会わない日があるなんて思いもしなかったのだ。

「最近怖いくらい勉強してたし、疲れたんじゃないかって。お陰でこの間の考査すげぇ順位上げてたけどさ」
「……菅原さん、もう一つ聞きたいことが」



***



 ここに来て俺は、何を言うつもりだったのだろうか―――先輩の家の門の前で、俺は立ち尽くしていた。
 友人でもクラスメートでもない、ただの後輩である自分が家に押しかけて、先輩の親になんて説明するつもりだったのだろう。勢いで来てしまったが、とうとう後悔が押し寄せる。
 もやもやしながらインターホンを押せずに固まっていると、玄関のドアが開いた。まずい隠れる所がない、と焦るも既に手遅れで―――

「あら、うちの娘のお友達かしら?今日は菅原くんじゃないのねぇ、最近の高校生はおっきいわねぇ」

 先輩の母親と思しき人物に捕まってしまった。どこかに出掛けるつもりだったろうに、自分の用事など放り出して俺の背中を押して家の中へ押し込む。この強引っぷりは間違いなく先輩の母親だ。この母親にあの娘ありか、などさっきまでとは違う意味で後悔し始める。来るべきではなかったと。

「それじゃあ、おばさんちょっと夕飯の買い足しに行ってくるからあの子のこと見てあげててくれる?階段上がって突き当たりの部屋だから。何かあればリビングにいる息子に聞いてね、あの子の弟だから。すぐ帰ってきてお茶入れるから待っててちょうだいね」

 いや、輪をかけて厄介だ。先輩のいつものノリが可愛いらしく思える。完全に俺の事情は無視、むしろ話を聞こうともせず、あまつさえ思春期の男女を同じ部屋に通して自分は出掛けるなど。弟も一階にいるとは言ったが、もし俺が悪いクラスメートだったら体調不良の先輩に何をするか分からないと言うのに。勿論俺は純粋に先輩が心配だっただけで、弱った先輩に付け込むなんて真似をするつもりは毛頭ないが。

(………ん?)

 待て待て、今のではまるで先輩に気があるみたいではないか。そういう意味ではない、本当に心配でというか、出来心でというか。いや出来心ではない、とにかく何か先輩を意識した訳ではない。けれどなぜだろうか、「今日は菅原くんじゃないのね」という先輩の母親の言葉が引っ掛かる。菅原さんはよく先輩の家に来るのか。クラスメートなのは知っていたが、先輩が欠席する度に菅原さんがプリントを届けに来ているのだろうか。
 先輩の部屋のドアをノックする。返事はない。そっとドアを開けてみると、先輩は眠っていた。足音を立てないように細心の注意を払って部屋に入り、先輩に近付く。

(苦しそうだな…)

 眠っているのに眉間にしわが寄っている。顔もいつもより赤いし、呼吸は忙しない。
 疑っていた訳ではないが、先輩は本当に風邪を引いたということが一気に現実味を帯びる。起きる気配のない先輩の額に手を伸ばしてみると、当たり前だが熱い。すると、その時少しだけ表情から険しさが消えた。そして身じろぎをしたかと思えば、うっすらと目を開けた。
 せっかく眠っていたのにまずい―――そう一人で焦っていると、掠れた小さな声で「影山ちゃん」と俺を呼ぶ先輩。振り返ればぼうっとした目の先輩がむくりと起き上がり、

「すき……」

 俺の方に倒れ込んできた。







(2014/11/18)