夜の海でねむりをかぞえて

 正しい選択があるなら、最初から教えて欲しい。けれど、私一人のものにできるならその方法を教えて欲しい。絶対に叶うことのない欲を、私はずっと言えずに抱えている。

「オリンピック以降、ますます増えてない?」
「んー…そうだねえ…」

 試合後の選手通用口は、とても混雑している。主に、若い女の子たちで。バレーに詳しくない私は、初めて会場に行った時に驚いたものだ。主に、若い女の子たちに。そして、その若い女の子たちの多くが、私ともそう年齢が変わらないにも拘らず、立派なカメラを首から下げている。大きなレンズで熱心に目当ての選手を追っていて、当初はその熱に一歩引いて帰ろうかと思ってしまったくらいだ。今では会場の空気にも慣れたものだけれど、流石に私まであれほどのカメラを構えて観客席に座ろうとは思えなかった。
 苦労するよ、とは言われていた。飛雄くんと付き合い始めた頃、その報告を聞いた誰もに。友達にも、同僚にも、姉にも。その時の私には、当然どんな苦労があるかなんて想像くらいしかできなかった。多分予定の合う時間なんてほとんどないんだろうなとか、連絡もまめには取れないんだろうなとか、普通の恋人たちができるようなことは殆どできないだろうなとか、それくらいは予想していたし、気にしていなかった。
 けれど、現実はそれよりも苦しいことが待っていたのだ。飛雄くんは、非常に女の子のファンが多い。恐らくチーム随一と言えるほどに。

「大体、差し入れもお手紙も捌くのでしょ?」
「うーん……」
「苦労しますこと」
「そうだねえ」

 私からはファンサービス中に駆け寄って声をかけたりこそしないけれど、大体私がいつもどの辺の座席にいるか、出待ち待機をしているかまで飛雄くんは確認して来る。そしていつも私を見付けて、視線を送って来る。こっち来いとまでは言わないが、手の一つくらい振らないと延々ガン見というものをされるので、にこりと笑って手を振るのだ。飽くまで周りにばれない程度に。
 彼に不満なんてない。誰もが耳を疑うだろうが、私といる時の飛雄くんはパブリックイメージとはおよそかけ離れた所にいると思う。自分で言うのも恥ずかしいので具体的には伏せるが、かなり、大切にされている自覚はある。かなり。だからこそなのだろうか、無性に飛雄くんを人前に立たせたくないと思うことがある。

「あ!!あそこにいるのじゃね!?」

 隅っこで友人と大人しくしていたのに、なぜか目聡い星海さんが大声で名指しして来た。やめてくれ頼む、と思えど時既に遅し、顔を背けても突き刺さっているのが分かる視線が痛い。

「…お、お疲れさまで~す…目ぇいいですね~…」
「まあな!お前今日こそ持って来たんだろうな、色紙!」
「……サインここにお願いしまーす…」
「よーし任せろ!」

 過去の経験から、こういうこともあろうかと用意して来た色紙と油性ペンを差し出す。星海さんは上機嫌でさらさらとそこにサインして見せた。満足げだ。
 飛雄くんからの繋がりで知り合いになった星海さんは決して悪い人ではない。ないのだけれど、悪目立ちしたくないこの状況で私を見付けるその視力の良さは今だけは恨みたかった。周りの視線が痛い。ついでに、飛雄くんからの視線も感じる。反対側からは友人が肘で何度も突いて来るので、挟まれた私は根負けしてちらっと飛雄くんの方を見た。へらりとぎこちなく笑うと、飛雄くんも飛雄くんで満足そうな顔をして見せた。

「…帰ろう、今すぐ帰ろう」
「まだウシワカ出て来てないじゃん」
、好きだったの!?」
「や、ここまで来たら一目拝んでおきたい」
「また今度、今度にしよう、ね!今日は状況悪過ぎだから!」

 渋るを引きずってその場を離れる。
 ここで堂々としていれば、熱心に通って顔を覚えられてしまったファン、くらいに思われるのかも知れないが、私の神経は残念ながらそこまで図太くないし、心臓も小さい。それに、きっと周りが思ってるほど寛大でもないし、妬まない人間でもない。色んな事情を、私も大人だから分かっているつもりだ。けれど、理解することと納得することは似ているようで違う。一応、まずいものが入っているといけないからと、進んで始めた差し入れやお手紙のチェック。もちろん手紙の内容まではしっかりとは読まないけれど、危ないものが仕込まれいないかくらいは私が確認する。その際、ちらりと見えてしまう手紙の内容に、ぎゅっと心臓を掴まれたような気持になることだってある。気にしないふりをして全部飛雄くんに返すけれど。
 ああやって、熱心に影山飛雄選手を追いかけている女の子たちは、きっと私よりもずっと知っている飛雄くんの側面がある。そう思うと、どうしても息が詰まりそうになってしまう。分かっていたはずなのに。

「…さ、影山くんと話さなさ過ぎ」
「え?」
「あれだけ嘘偽りなく話す影山くんに対して、はどうなの?」
「どう、って……」
「我慢すれば良いってものじゃないでしょ。プラスもマイナスも話せなきゃ、二人が二人でいる意味なんてないんじゃない?」

 がつんと頭を殴られた気分だった。我慢することなら慣れている。耐えることも、まだそんなに苦痛じゃない。一瞬痛むことはあるけれど、それで飛雄くんとの関係がどう、という訳ではない。だって、私の勝手な嫉妬と飛雄くんは無関係だ。熱心なファンがたくさんつくのは飛雄くんが活躍している証拠だし、有名になっている証拠だし、それはもっともっと高い所を目指して行く飛雄くんにとっては大切なことで―――。

「好きにしたらいいけど、いくら影山くんでも気付いているとは思うよ」

 あんたがいくら笑っていてもね、とは続けた。私よりよほど恋愛経験のある友人の言葉には説得力があった。

 私が一番に思うことは、何より邪魔になりたくない、だ。迷惑をかけたくないし、私のことで悩ませたくない。バレーをしている飛雄くんも好きだから、そこに集中できるように、私のことで煩わしい思いをさせたくないのだ。私は二番でも三番でもいい、というのが本音だった。どうせ、これまでだってさほど選ばれて来なかった人生だ。それが、まさか日本代表なんて肩書きの飛雄くんの彼女をしていて、大逆転のような今を送っているのだから、そう多くは望まなくてもいいと思っている。…そうは思っていても、やはり気持ちは妬みとは無縁にはなってくれない。
 私は飛雄くんの一番でなくても良いと思うのに、その実、飛雄くんをこれ以上女の子たちの前に晒したくないし、その目が私だけ見てくれていれば良いと思う。どうしようもない矛盾だ。バレーと私ならバレーを取ってくれて何ら問題ないのに、あの影山選手に熱心な女の子たちの視線は全てシャットアウトしてしまいたい。

(…“遅くなるけど行っていいか”……)

 電車で家に戻っている最中、スマホには飛雄くんからのメッセージが届いていた。試合が終わったその日にうちに来るなんて珍しい。もちろん私は何の予定もないし構わないのだが、中数日でまた別の試合があるのではなかったか。今日はホームゲームだったけれど、今度は確か遠征になる予定でもある。
 いいよ、と返信しながら、ぼんやりと思い返していたのは今日の出来事だ。なかなかに良い席を引き当ててしまった私と友人は、周りをガチガチのファンに固められてしまった。すると入って来る話題の中には当然飛雄くんのこともある。やれいつの公開練習がどうの、やれいつの試合がどうの、やれいつの出待ちがどうの―――私の醜い嫉妬心を煽るには十分だった。誰かを好きでいることでこんなにも汚い感情を持ちたくなんてないのに、好きでいればいるほど、どんどん自分が嫌な人間になって行くようだ。
 とっくに暗くなった外の景色は、私の心を映したみたいに真っ暗だった。



***



 飛雄くんがうちのアパートに到着したのは、思ったほど遅くはない時間だった。それでも律儀に「遅くなった」と言う。

「何か食べる?あ、いや、食べて来た?」
「食ってない」
「嘘でしょ!」
「嘘じゃねえ」
「この間飛雄くんがくれたパワーカレーくらいしか作れないよ?」
「食う」

 ホームゲーム終わりなんだから、チームメイトとご飯くらい食べて来たのではないだろうか。時々こういうずれた気遣いをする飛雄くんに苦笑いしながら、カレーと冷凍ご飯を温める準備をする。座っていて良いよ、と言ったのに、なぜかキッチンで作業する私に飛雄くんはぴったりとくっついたままだ。水でもご所望だろうか思って訊いてみたが、違うらしい。何か言いたいらしいが言い出さない飛雄くんに、どうしたの、と首を傾げて見ると、なぜか突然頭を二、三度励ますように軽く叩かれる。

「な、なに?」
「今日の試合終わり…」
「うん」
「星海さんが悪かった」
「え?」
が目立ちたくないのは知ってたのに」

 星海さんの名前を出され、今日の出待ち現場を思い出した。確かに、あれは過去一番目立っていたと思う。基本的に身内にフレンドリーな星海さんは、後輩の彼女だと思って親しくしてくれる。突っぱねられるよりは余程良いけれど、何せやり方が目立つのが悩みの種ではあった。少々困っていると、飛雄くんは見抜いていたらしい。
 その時、の言った「影山くんでも気付いていると思う」という言葉が脳裏を掠める。

「そういう飛雄くんも、ガンガン視線飛ばして来てたけど」
「俺は絡んでないからノーカンだろ」
「私がリアクションしないと拗ねる癖に」
「それは…いつもは星海さんや牛島さんには会釈してるのに俺に会釈しないのは変だろ」
「ふはっ、確かに変だね」

 不思議な理論を展開する飛雄くんがおかしくて、思わず笑ってしまう。飛雄くんと話していると、今日あった嫌なことが全部吹き飛んでしまうみたいだ。こうして飛雄くんのお陰で毎回リセットされるから何もかも耐えられるのに、なんでどんどん妬ましい気持ちは膨らんで行くのだろうか。そんなこと、飛雄くんに悟られたくない。本当はいつも、ファンの女の子たちに嫉妬しているなんて。あの子たちが飛雄くんの話をしている所を聞きたくないなんて。終わりがない醜い感情なんて見せたくないのだ。
 ふと、笑いの止まらない私の頬をするりと撫でる。軽口も冗談も止まって、電子レンジの機械音だけが聞こえる。三十センチくらいは見上げている飛雄くんが屈んで、その顔がゆっくりと近付いて来る。私は飛雄くんに掴まりながら少し背伸びをして、目を瞑った。そのタイミングで唇が触れて、けれどそれはたった一回で離れて行ってしまう。

が目立ちたくないのは分かってるつもりだ」
「…うん」
「でも、時々無性に、は俺のだって、言いたくなる時がある」
「ど、どこで…」
「今日みたいに星海さんに絡まれたり…この間はロメロと握手してた…」

 できるだけホームゲームには足を運ぶようにしている私は、当然星海さん以外とも顔見知りになってしまっていた。星海さんから牛島さんへ、そしてロメロへと情報が筒抜けらしく、どうも隠れようがないのだ。帽子をかぶろうと眼鏡をかけようと、飛雄くんはともかく、星海さんにもすぐ発見されてしまう。
 飛雄くんのチームの人だから、当然いい関係ではいたくて、悪いコミュニケーションを取らないようにはしていたのだが。

「…気になるなら、試合終わったらすぐ帰るよ?身内が冷やかしに来てるって周りに思われたらチーム的にも良くないでしょ」
「いや、そうじゃなくて、そうだな、いや…」
「飛雄くん?」
が、嫌じゃない方で良い」

 そう言って、私を抱き締める。私なんてすっぽりと覆い隠してしまう身体に、私も腕を回した。多分、飛雄くんがちょっと力を入れれば、私なんてすぐに息が止まってしまうだろう。それだけの力の差があることは、火を見るよりも明らかだ。もちろん自らそんな事を望むような嗜虐趣味はないし、飛雄くんにもそんな事は望まない。この腕の中にいる時は何より安心するし、嫌なことを考えずに済む。
 ただ時々、息が止まれば嫉妬が巡ることも終わるのだろうな、と思うことがある。飛雄くんの恋人である限り、逃れられない嫉妬心も、独り占めしたいと思う気持ちも。女の子たちの視線を浴びる飛雄くんを見ることだってなくなる。
 私のことで飛雄くんを悩ませたくない、煩わせたくない、そう思う気持ちだって本当なのに、ぽつりと零れたのは本音だった。

「私は、どっちも嫌だな…」
?」
「どっちも、嫌だ…」

 私を離して、飛雄くんは顔を覗き込む。俯いた顔を上げれば、ぱちりと目が合った。私を見る目は、どこか心配が滲んでいるようにも見える。はっとして、なんでもない、と言いかけた。言いかけたけれど。

「他には」
「え?」
「他に嫌なことも、今言ってくれ」

 その瞬間、確信する。何もかも見透かされていたことを。多分、なんとなく私が何を嫌だと思っているかも、飛雄くんは察しがついている。その上で、きっと今日まで見過ごしてくれていた。何も言わずにいてくれた。そうでなければ、さっきのような言い方はしない。嫌なことがあるなら、とは言わなかったのだ。

「…スポーツ選手は、人に見られる仕事だから」
「ああ」
「だから、仕方ないのは分かっているの、分かっているけど」
「ああ」
「不特定多数の女の子から、好意を向けられているのを見るの、やっぱり、嫌だ」

 片言のように途切れ途切れで伝える。それを、飛雄くんは頷きながら聞いてくれる。否定もせず、肯定もせず、諦めてくれとも言わず、謝りもしなかった。言い終えて唇を噛む私に、「切れるからやめろ」とあやすように言うと、血の滲みかけていた唇にもう一度キスをする。
 伝えてしまえば終わりだと思っていた。呆れられたり、幻滅されたりしても仕方ないと。けれど、飛雄くんはただ私の言葉を聞いてくれる。堰を切ったように溢れ出す気持ちを、頷いて、聞いてくれる。どこまで見透かしていたのか、勘付いていたのかまでは分からない。けれど、少なくとも驚いた様子はない所をみると、いくらかは想像がついていたらしい。私が言わないから、飛雄くんもまた踏み込んで来なかったのだろう。それが、彼なりの優しさだった。私が弱音を吐かない内は、無理矢理言わせないでおこうという。

「こういう環境にが耐えられないなら、別れても仕方ないと思っていた」
「や、やだ…」
「落ち着け。実際、はずっと待っていてくれただろ」
「だって…待ちたかったから…」

 バレーのことは多くは分からないけれど、試合終わりや疲れた時、そこから切り離されて休める場所でありたいと思った。何も知らないからこそできることがあるかも知れないと思った。けれど、本当はちゃんと分かっていた方がいいのだろうし、その方が飛雄くんを支えられるのだろう。私は素人だから、飛雄くんが見返す試合の映像を一緒に見ていても、何も反応することができない。黙っていることが正解なのだと言われても、もしちゃんと飛雄くんのいる世界を理解できたなら、もう少し同じように物事が見られたかも知れない。
 それでも、頑なに一線引いてこちら側にいたのは私だ。飛雄くんを追いかける女の子たちと同じ土俵になど上がれないし、上がらないと言うのは、もはや意地だった。私はあなたたちとは違う、という、何よりも醜い優越感が、私を線の内側に留まらせていたのだ。

「俺はまだまだ新人だから、今すぐと何か約束することはできない」
「…………」
「けれど、まだが待ってくれるなら、それに甘えたいと思ってる」

 いつも自在にボールを操る飛雄くんの指が、私の指を絡め取る。その目が、その手が、その声が、私の自由を奪って行く。まだここにいてもいいのだと、そう言っているようにさえ聞こえる。都合よく解釈した私は、握られた手を握り返した。

「まだ、待ちたい」

 いくらでも待てるから、甘えて。泣きながら言うようなことじゃないのに、今、確かにこれからが約束されたのだと分かり、溢れて止まらなくなる。私の返事に飛雄くんは頷いて、もう一度私を抱き締める。私が世界で一番好きな温度だ。その背中にしがみついて、きっと離れないと誓った。

「…忘れてた」
「なに?」
「牛島さんのサイン、に頼まれてた」
「は……」

 飛雄くんの言っていることが一瞬理解できず、何度か頭の中で繰り返す。牛島さんのサイン、頼まれてた、に。嘘でしょ、と、思わず声が漏れる。友人のちゃっかり具合がおかしくて、飛雄くんの腕の中で噴き出してしまった。こんな時にそんなことを思い出す飛雄くんも、なんだかやっぱりおかしい。笑いを堪えるのに必死で震える私の顔を、心配そうに覗き込む飛雄くん。泣き笑いで目尻に滲む涙を拭いながら、私は返す。

「いいよ、そんなの」
「そうか」
「今度、二人で出待ちに行くから、その時で」
「…そうか」

 分かった、と言う飛雄くんの声は、心なしか明るい。満足げな表情を浮かべる飛雄くんの頬に、私はめいいっぱい背伸びをしてキスをした。