明日をきちんと終えてから

 こうなったことが罰だと言うのなら、一体私の何が罪だったのだろうか。

「もう来ないでよ」

 顔も見ずに言った私の一言のせいで、静かに部屋の中に怒りが充満するのが分かった。「ハァ?」といういつもの不機嫌な声すら帰って来ない。私は平静を装って、もう一つ拒絶の言葉を重ねる。なんか疲れるの―――すると、流石に私の肩を乱暴に掴んで振り向かせようとする。肩が軋む音がする、ような気がした。

「私、多分高校辞めるから」
「なんで」
「なんでって、聞いたでしょ?」
「あんなの噂だろ。の口からは聞いてない」

 左腕に刺さった点滴は、規則正しく落ち続けている。もうずっと空っぽのお腹は、食べ物も受け付けなくなっていた。病院食はもうとっくに始まっているはずなのに、未だに数口で嘔吐してしまい、点滴が手離せない。退院の目途が立たないことにいつしか焦りすら感じなくなっていたのは、薄々退学しなければならないことを勘付いていたからだ。

「噂じゃないよ。聖臣くん、テレビ見た?」
「……聞こえただけだ」
「あれが全部。あんなに報道されて復帰できる訳ないよ。学費のこともあるし」
「…………」

 私と聖臣くんは家も近所の幼馴染みだ。だから、もうずっと前から私の家に問題があることはきっと知っていた。だから聖臣くんのお母さんは私を心配してくれていたし、聖臣くんも私から目を離さないようにしていた。私が高校生になってからは、特に。
 けれど、そうして優しくしてくれる人たちの心配も虚しく、私は両親と上手く行かなかった。上手く行かなかった、と言うのはあまりにも綺麗に言い過ぎで、テレビで報道された通りに言うならば、両親は私に売春させていた。今回は、色んなタイミングが重なって偶然街中で警察に発覚し、私は補導された。
 その時、私は僅かに残っていた自我が安堵を覚えた。ここで全てを言ってしまえば終わると。ほんの一瞬の安堵だった。

「死んでしまえれば良かったのに」

 最後の最後、正に両親が警察官に身柄を捕らえられるはずだったその時、酒に酔った父親は暴れて私を刺した。あの時、一命をとりとめてしまったのが私の運の尽きだったのかも知れない。あのまま死んでしまえたら、ほんの数年で出て来るであろう両親の存在に怯えて暮らす未来だってなかったのに。これまでも地獄だったのに、まだ地獄が続くと言うのだろうか。私の安寧は学校にいる間だけだったのに、もうそれも終わってしまう。
 事件以降、もう一か月近く入院しているけれど、聖臣くんは部活で遅くなろうと必ず面会時間内に滑り込んで私の顔を見て行く。食事に手を付けずどんどん痩せて行く私に、毎日パックジュースを持って来る。これくらい飲め、と。それさえ、半分も飲めずにベッドサイドにはジュースが積み重なって行くばかり。それを見ていつも聖臣くんは険しい顔をするけれど、それでも差し入れを止めることはしない。多分、彼なりに私を元気づけようとしてくれているのだろうし、それが彼の優しさだと言うことは分かっていた。だから辛かった。

「死んでしまいたい……」

「あの時死んでいたら、こんな思いしなくて済んだのに」

「まだ生きてなきゃいけないの…」

 ぎりぎり保てていた世界がある。そこには何も知らない聖臣くんがいて、何も知らないふりをしている私もいた。学校と言う狭い世界の中でだけ、私は普通の高校生だったのだ。高校生らしく勉強をして、高校生らしい話をして、高校生らしく純粋な恋もしていた。何も知らずにいれば、好きでいるだけならきっと許される。誰よりも近くて遠い聖臣くんを、好きでいるだけなら。学校に着いて、聖臣くんの顔を見ることができた時―――それは私が一日の内で唯一生きていて良かったと思える瞬間だった。聖臣くんだけが私の安心だったのだ。
 そんな夢みたいな時間も、もう終わる。バレーに打ち込む聖臣くんの邪魔だけはしたくないとずっと思っていたし、荷物になるのも枷になるのも許せなかった。きっとこれからどんどん遠くへ行く聖臣くんの傍には、私はいられない。

(ああ、そうか……)

 これが罰だと言うのなら、私みたいなのが聖臣くんを好きになったことが罪なのかも知れない。
 ゆらゆらと、病院らしい薄いグリーンのカーテンが揺れる。夕方から雲行きが怪しいとは思っていたが、どうやら入って来る風からは雨の気配までする。そろそろ窓も締めなければならないのに足が怠い。すっかり体力も落ちて、一日起きているのも辛いくらいだ。点滴棒を支えに立ち上がり、転落防止のため数センチしか開かない病室の窓を閉める。
 尚も帰ろうとしない聖臣くんに、再度帰ってくれと言おうとしたその時、ふっと頭上から影が落ちて来る。私の後ろから聖臣くんが窓に手をついた。そして、カーテンの上で爪の食い込むほど手を握り締め、地を這うような声で言った。

「ふざけたことばっか言うな」
「…退いてよ」
がこっち向いたら退く」
「やだ」

 だって、聖臣くんの顔を見たらきっと耐えられなくなってしまう。事件以降、一度も泣かなかったのに、泣かずにいられる自信がない。泣いてしまったとしても聖臣くんは嫌な顔なんてしないだろうし、私を見捨ててなんてくれない。今日でお別れにしようと思ったのに、その決心すら揺らいでしまう。

、こっち向いて」

 病院に運ばれ、まだ意識もぼんやりとしている中、私は夢の中であったかも知れない色んな未来を見た。全く違う両親の元に生まれ、幸せな家庭で育つこと。これまで私のやって来たことが全て消えて、ただの高校生として三年間を過ごすこと。自由に生きる私が、なんの後ろ暗い気持ちもなく聖臣くんの隣に立つこと。どれもこれも、見果てぬ夢だ。私があの両親の元に生まれたことも、それ故作られてしまった過去も、どれもなかったことにはできない。
 だから、まっさらな綺麗な私が聖臣くんを好きになることは決してないのだ。端から見れば薄情に思われるかも知れないけれど、聖臣くんが私の家のことを知らぬふりをして私に接してくれたことは何よりも救いだったし、聞かずにいてくれたことでただの高校生のふりをして笑っていられた。二度と取り繕うことも“ふり”をすることもできない私が、同じように笑った顔を見せられるはずがない。こんなにも手を汚してしまっていることに気付かれてしまったのに。

「生きてよ、、生きてよ」

 それなのに、そんなことを言う。大体いつも私の前では淡々としている癖に、なんで今、そんなにも懇願するような声を出すのだろう。
 さっき私の肩を掴んだ時とは打って変わって、まるで壊れ物でも扱うかのように、弱い力で私を抱き締めた。その大きな手は震えている。

が忘れて欲しいことがあるなら忘れる。だから、生きてなきゃいけないのとか、言うなよ」
「だめだよ……」
?」
「だめだよ、そんなこと…そんな甘いこと言われたら、私、どこへも行けなくなっちゃう…」

 何一つ終わらせることができなくなってしまう。忘れなければならないのは私の方で、私が聖臣くんを忘れて、どこか遠くへ去ってしまわなければならなかったはずだった。私が傍にいることで、聖臣くんにまで悪い噂や評判が付き纏ってしまったら、きっと将来に響く。素人の私でも分かるのだ、聖臣くんはきっと一般人では終わらないと。それなのに、私にこれからついて回るのは、“両親に体を売らされていた女”だ。

「どこへも行くな」

 そう言って、さっきよりも両腕に力が込められる。私が苦しくない程度に。
 もういっそ今、呼吸が止まってしまえば本望だと思ってしまった。聖臣くんにそんな風に言ってもらえただけで、あの地獄を生き抜いた意味が少しはあったのかも知れない。これ以上は、もう十分だ。
 聖臣くんの腕に、そっと手を添える。小さい頃から知っているのに、体に触れればいつの間にか知らない人みたいになっていた。どうしたって普通にしていれば目線は合わないし、こうして抱き締められれば私なんて覆い隠してしまう。この人が弱いとは思わないし、周りの声を気にするような人物だとも思わない。そこだけは幼い頃から変わらない性質で、そういう所に救われて来た。私がどんな家庭環境にあっても哀れむようなことはしなかった、ずっと態度を変えずにいてくれた。思春期を越えてもなお、変にぎくしゃくすることなく、付かず離れずでいてくれた。何もかもなくなったはずの私が、唯一失いたくないものが聖臣くんになっていたのだ。

「…どこにも行けなくなっちゃった」
「ここに居ればいいよ」

 その一言を聞いて、無意識に涙が頬を流れた。何の涙か分からないまま、視界は滲み続ける。

「ここに居ればいい」

 ずっと、そう言われたかった。お金を握って家に帰る度、お金だけ引っ手繰って私には目もくれなかった両親。家の中のどこにも私の居場所なんてなかった。学校は唯一人間らしくいられたけれど、聖臣くんなしでは私の居場所にはなり得なかった。ただの幼馴染みでいる間は、聖臣くんは私のたった一つの安心でよりどころではあったけれど、居場所ではなかった。無論、他の誰だって。

「終わりにするのは、もう少しだけ俺と生きてからにして」

 諦めと絶望の中で、聖臣くんだけが私をこの世界に繋ぎ止めてくれたのだ。



***



「晴れてる…」

 夜中に降り続いた大雨が嘘のように、朝になると快晴だった。カーテンを開けると太陽光が目に痛く、思わず目を細めた。雨に紛れて泣きはらした瞼は腫れぼったい。
 あの後、私が変な気を起こさないようにと、あの聖臣くんが病院に泊まりたがった。けれど流石にそれは看護師さんに認められず、面会時間ぎりぎりまで滞在した後、私を疑いながらも渋々帰って行った。病院の玄関までなんとか見送り、部屋に帰る頃にはぐったりしていた。そして、久し振りに夜中目覚めずに朝まで眠った。いつもは明け方に目が覚めたり、何度も覚醒しては眠れない夜を過ごしたりするのに。
 事件は大きくは動いていない。裁判も始まっていなければ、警察からの事情聴取もまだ続く。何か劇的に動いた訳ではないのに、昨日までの暗い気持ちが少しだけ浮上したみたいだ。
 その時、控えめなノックが聞こえて来たかと思えば、あろうことか聖臣くんが病室に入って来た。


「…き、聖臣くん、なんで」
「朝練前に生きてるか確認しに来た」
「メールでいいのに」
「自分の目で見ないと信じられない」

 すっかり疑り深さを隠さなくなった聖臣くんは、じとりとした目で私を見る。本来はこの時間はまだ面会時間は始まっていない。私の場合は事情が事情だから特別に許可してもらっているのだが、それでも看護師さんたちに嫌な顔をされるだろうに流石である。

「おはよう、聖臣くん」
「…おはよう」

 朝が来る、一日が始まる。昨日までと同じで、それは何も変わっていない。きっと今日の夜も聖臣くんは来る。私が退院するまで、余程のことがない限りは毎日来てくれる。それはあまりにも贅沢な気がした。また一つ、どんどん罪を重ねて行くような後ろめたさはすぐには消えてはくれない。けれど、どこかでまた罰を受けるのだとしても、もう少しだけ待って欲しい。もう少しだけ、この世界を聖臣くんと生きさせて欲しい。それくらいの我儘、どうか許して欲しい。病院から出る頃には、また世界は恐く冷たいものになってしまうのだから。

「夜、また来る。ご飯ちゃんと食べろよ、
「努力はする」
「ああ」
「聖臣くん」
「なに」
「いってらっしゃい」

 まだ終わりませんように。これが幸せな夢なら、まだ続きますように。来るべき日が来たら、大人しく首でもなんでも差し出すから。だからあと少し、少しだけ。

「いってきます」

 聖臣くんの目が、僅かに細くなる。私はまた泣きそうになった。“その日”が来ることが、一層惜しくなってしまった。明日なんて、来なければ良かったのだ。