プロのスポーツ選手というのは、芸能人ほどではないが、恋愛だ結婚だと言われればスキャンダルとして取り扱われるものだと思う。私はそういうものとは一生無縁で、良くも悪くもない平凡な生活をし、大きな山も谷もなく生きて行くのだと思っていた。影山飛雄といえば今をときめく男子バレー日本代表の一人で、同じ大学の後輩だ。会ったことがないわけではないが、私の二つ下の高校からの後輩の同期というだけで、それ以上でもそれ以下でもない。向こうは私と会ったことも話したことも何もかも忘れているかも知れない。だが、私も大概ちょろいもので、少なからずあるミーハー心を擽られて、大学の時に少しだけ話したことを今でも忘れられずにいる。いい思い出としてそれは残っているだけのはずだった。
 大学在学中に取得した医療事務の資格のお陰で、卒業後は近所の総合病院の医療事務に就くことができた。運が良かったのだと思う。世は未だに就職氷河期の名残を引きずっている。本当に、運が良かったとしか言えない。
 そんな私の勤務は今日は夜勤だ。総合病院のため夜間の緊急受診も受け付けているのだが、夜間受付は昼間の受付とは違い、待合室と診察室が見渡せる二階フロアに設置されている。昼間と違うのはもう一つ、受付から会計までの業務を一人でこなさなければいけないこと。とはいえ私は事務仕事。誰にでもできる仕事、代わりなんていくらでもいる仕事。夜間受付のパソコンに向かいながら、私は出勤前にスマホに流れて来たニュースを思い出していた。「全日本代表影山飛雄、怪我のため試合の途中退場」―――ああそういえば、今そんな時期だったか。スポーツ全般に疎い私はその程度の感覚だったが、そうではなく、久し振りに目にしたその名前に胸の引っ掛かりを覚えていた。それはきっと、私とは真逆の世界の出来事だからだ。彼には代えが利かない。寝過ぎたせいか、あくびがひとつ出た。

さん、急患らしいから処理お願いね」
「あ、はい」
「あとね、あのー…一般人じゃないから取り扱い気を付けて」
「へ?」

 先輩の声にあくびを止め、渡された受付票とカルテを見ると、そこには今まさに頭を過っていた“影山飛雄”の文字。まさか、こんな珍しい名前で同姓同名の別人のはずがない。何度も瞬きをしてその書類を見た後、先輩の顔を見上げた。すると、先輩の顔もやや引き攣っている。都内の総合病院とはいえ、有名人が受診に来るなんて滅多にないのだ。しかも、自分の当直中に。

「さっきニュース流れてたでしょ?会場に一番近い病院がうちらしくてねー…入院にはならないと思うけど」
「は、はあ……」

 とはいえ、私はレセプトの処理をするだけで、診察するわけでもレントゲンを撮ったり血を取ったりするわけではない。本人と接触することなんてまずない。受付だって付き添いで来た代理の人がするだろうし、本人は診察室と検査室にまっしぐら。最後の会計も代理の人がするはず。初診の処理をしながら、他に診察を待つ夜間受診の患者たちを見渡す。今日は空いている方だ。このまま平和だといいのだが、そう思う時に限って何かあるのだから口にはしない方が良い。

「あの、スンマセン。受付ってここですか」
「あ、はい、ここで―――………かっ!?」

 大声を出しそうになった口を慌てて押さえる。そこには、私が持っているカルテの張本人、影山飛雄がいた。待ってくれ、なんてベタな展開なんだ、と頭の中に住む私が頭を抱える。今時漫画でもドラマでもこんな分かり切った展開は使わない。期待をしていたわけでもないし、望んだわけでもない。見たところ一人で突っ立っており、付き添いがいないように見える。その左手は応急処置だろうか、三角巾で吊られている。

「う、受付はここですが…もう影山さんの受付は終わってますよ。これで熱と、あそこの血圧計で血圧を測って結果を持って来て下さい」
「ども」

 どうやら向こうは私が“私”だと気付いていないようだ。そう何年も経っていないけれど、やはり就職してしまうと雰囲気が変わるのだろうか。影山飛雄はあまり変わっていないようだ。当時から見た目だけは大分大人びていたけれど。まあ、確かに風格はあの頃よりも出たような気が―――

「あの」
「はい?」
「血圧、測れないんスけど」
「あ……すみません……」

 片手がこの様子では、確かに据え置き型の血圧計で血圧は測れない。体温計は自力で保護している方の腕に挟んだようだ。もう一度血圧計の前まで案内し、ボタンだけ私が押す。
 ここまで来て何も言わないということは、やっぱり私のことなんて記憶にないのだろう。ほんの少しあって、ほんの少し言葉を交わしたくらいでは。血圧計から出て来た測定結果の用紙を引きちぎり、ついでに鳴った体温計も回収する。それではあちらでお待ち下さい、と先程と同じ言葉をかける。その時、私より30cmは高そうな身長の彼が、私を見下ろした。その迫力たるや、思わず一歩後ずさった。切れ長の黒目が見つめて来る。それもなかなかの眼力で。

「な、なにか……」
「……いや、スンマセン」

 まだ何か言いたげだったが、それだけ言うと適当に待合室のソファに座りに行った。クレームをつけたそうな雰囲気ではなかったが、何か物申したそうにはしていた。訳の分からないまま影山飛雄を見ていると、やがて付き添いの人らしき男性が到着していた。もうちょっと早くに来てくれ、と思いながら、私は夜間受付のカウンターに戻った。
 もしかして、なんて思う。もしかして、私のことを思い出したのかしら、なんて。おめでたい頭だ。ぺらりと、さっき図った影山飛雄の体温と血圧を電子カルテに記入する。その数値にはなんの異常もない。そりゃあそうだ、外傷だもんな、と医学の知識のない私は適当なことを考えていた。その頭の片隅では、数年前の大学のキャンパスでのワンシーンが再生される。
 うちの大学はスポーツに力を入れていて、特に男子バレーは強かったという。私はそれと関連のない学科だったため、月に一回配布される学内広報で試合結果などを知る程度だった。一応逐一チェックしていたのは、男子バレー部に親しくしていた高校の後輩がいたからだ。彼にとって私は姉のようなもので、私にとっても弟のようなものだった。そんな彼に引き合わせられたのが影山飛雄というわけである。なんてことない、帰り道に遭遇しただけだ。「ちゃん!こいつがいつも言ってる影山だよ!」と興奮気味に紹介されたものの、私は人見知りだし、影山飛雄も不愛想だしで、話が盛り上がったわけでもない。ただ、このたった二つ下の普通そうに見える男の子が日本を背負って世界で戦っているのかと思うと、この世はとんでもないな、とは思った。それを鼻にかけるでもなく、「すごいね」と言えば嫌味でもなんでもなく「好きなんで」と言われたことはとても印象的だった。空気を吸って吐くように、自然と出て来た言葉だった。
 そのまま影山飛雄はバレーを続け、今に至るという訳だ。あの頃と変わらず日の丸を背負い、世界の最前線で闘う天才セッター。

(天才は怪我くらいでも動揺しないのか……)

 怪我をしたにしてはやけに冷静だった影山飛雄。いよいよ受付番号を呼ばれ、診察室に入って行った。数分後出て来たかと思えば、付き添いの人と一緒にフロアを離れる。きっとレントゲンなりCTなりを撮りに行ったのだろう。
 もし骨折なんてしていたら、どれくらいの期間休まなければならないのだろう。少なくとも、今している世界選手権だったか、あれは欠場間違いないだろう。折れていなくても、負傷していればドクターストップや監督の判断で欠場は免れない。私は医者じゃないから分からないけれど。
 その後、各検査を終えて、もう一度診察室に入って、暫くして出て来た影山飛雄の表情はやっぱり変わりなくて、何を考えているのかは分からなかった。ショックを受けているのか受けていないのかさえ。結果は左手首の捻挫、だったけれど。

「お大事にして下さい。医師から言われたと思いますが、後日かかりつけの医師に診察してもらうことをお勧めします」
「はい、ありがとうございました」

 その声色からも、やっぱり何かを察することはできなかった。



***



 そして、件の高校、大学と後輩だった彼からの連絡が入ったのは、それから数日後だった。

「なに、突然。珍しいわね」
ちゃんて、まだ最初の職場で働いてる?えーと、イリョウジム?』
「そうだけど、それが?」
『やっぱりかー!影山がちゃんを病院で見たって言ってたんだよ!』
「……私のこと覚えてたの?」
『覚えてるも何も―――あ、いや、なんでもない!』
「…あ、そ」

 あの夜間受診の日、何か粗相でもしただろうか。最低限の営業スマイル、もとい愛想笑いくらいはできていたはずだが。

『ところで、ちゃん明日仕事?』
「昼間だけね」
『何時上がり?』
「仕事の進み具合にもよるけど…18時には出られるかな。なに、ごはんでも奢ってくれんの?」
『まさか!ちゃんの方が先輩じゃないですか!』
「わざとらしい敬語だわ…」
『事務なのに夜とか昼とかバラバラなのかなって気になっただけ』
「うちは大病院だからね」

 その後は、少し世間話をした。なんてことのない近況報告。それ以降は影山飛雄の名前も出て来なかったし、私も経過は多少気になっていたけれど、なんとなく聞きづらくて聞けなかった。興味あるの、なんて好奇心に満ちた声で返されでもしたら面倒臭いことこの上ない。
 私は平凡な生活をして、平凡な毎日を送り、大きな事故も事件もなく生きて行く。テレビに取り上げられるようなことなんて天地がひっくり返っても起こらないような“一般人”だ。影山飛雄とは違う。たった一回夜間診療で関わっただけで首を突っ込むのは、平凡の枠から出ることだ。私はさほど人生に刺激なんて求めていないのだから。
けれど、そんな私の意思に反して世界というのは逆回転する。

「……あのー……」
「こんばんは」
「はあ、こんばんは……いや、ていうか、影山くん、ですよね?」
「はい」
「はい、じゃなくて」

 翌日、仕事が終わり病院を出ると、出口で私を待ち構えていたのは影山飛雄だった。身長が高過ぎてものすごく目立っている。いつぞや、奇妙な変装をしていたことを笑い話にされており、それ以降変装も何もしなくなったらしいが、こんなにも堂々といられるともうどうしたものか。驚くことすらできなかった。仕方なく、当たり障りのない話題を振る。

「…左手、大丈夫なの」
「大丈夫じゃないです」
「は!?」
「試合も練習も出られないんで」
「あっ……ああ、そういう……」

 ひやりとした。実は折れていたとか、もっと何かこう、重傷だとか、そういうことかと思った。確かに、スポーツ選手にとっては怪我で出場できないというのは大丈夫ではないことかも知れない。その証拠に、影山飛雄はぶすっとした顔をしている。けれど、怪我で済んだならいい方なのだ。病院というところで働いていれば分かる。

「治るから」
「はい?」
「影山くんのそれは、腕は、ちゃんと先生の言うこと聞いていたらちゃんと治るから」
「…………」
「治るまで無理しないこと。そうしたら、また今まで通りバレーできるよ」
「…………」
「休んでいた分取り戻すくらい、三度の飯よりバレーが好きな影山くんならやっちゃいそうに思えたんだけど、違った?」
「……や、そうじゃ、なくて」

 偉そうだっただろうか。ドライな私は、こういう言葉がけしかできない。それにカチンと来る人間もいれば、「はそういう人間よね」と諦めてくれる人もいる。影山飛雄とはこれ以上関わる予定もないし、どう思われても構わないのだけれど。なのに、まだ私を引き留める。というか、そもそもなぜこんな所で待ち伏せされていたのだろうか―――ああ、昨日の電話を思い出した。今日の勤務を聞かれたのはこのためか。何の文句を言われるやら。

「嬉しかったんで」
「はい?」
「数年ぶりに、さんに会えたのが」
「ど、どうも……」
「大学の頃から、俺、さんが、す、きだった、ので」
「……………はい?」

 私を見下ろすその超高身長の成人男性は、顔を真っ赤にしながら私を見下ろす。数秒考えた後、私は大きなため息をついた。

「待って………待って待って待って、影山くんが今考えないといけないことって他にない?怪我のこととか?リハビリとか?練習とか?バレーのことでしょ?なんで私?欠場で落ち込んでいるから慰めて下さいとか励まして下さいとかそういうのじゃないんでしょ?なんで今?」
さ、」
「はー……なんなの……」
「俺、落ち込んでます」
「はい?」
「落ち込んでるから、さんのとこに来ました」
「ごめん、全然見えない」

 左手首をちらりと見れば、痛々しく包帯が巻かれている。バレー選手にとって、手首の怪我は致命傷のようなもの。優勝も狙えるという今シーズンのチームの主軸の一人だった彼は、さぞ悔しいに違いない。自暴自棄にならないだろうか、絶望してよからぬことに手を染めないだろうかと、少しは流石に心配した。ほんの少しでも関わりのあった人間だから。それと共に掠めたのは、支えてくれる誰かはいるのだろうか、だ。この年になれば嫌でも考えてしまう。成人した今、親以外に自分を身近で支えてくれる誰かの存在を。まあ、これだけ有名人であれば恋人くらいいるだろうが、と思っていたのだが。

「…彼女は」
「え?」
「彼女はいないの」
「いません」
「まじでかー……それで私?手頃に?」
「そ、そんなんじゃないっす!!」

 声を張り上げて否定する。通り過ぎる人たちが一斉に振り返る。けれどそんなこと気にもせず、というか、気付いてもいないのか、今度は影山飛雄の方が必死に話し始めた。

「大学の時、さんと初めて会って、全日本に選ばれたことを聞いたさんが、言ってくれたことが嬉しかったんで、バレーが好きだからって言った俺に言ってくれたこと、覚えてないんすか」
「…………」
「いつまでも躊躇いなくそう言えるなら、いつまでも強くなれるよって、言ってくれました」
「………そんなこと」

 そんなこと、なんとなくそれっぽいことを言っただけだ。がんばってね、というのは突き放すようで嫌だったし、応援してるね、なんて実際しないことを言うのも嫌だった。だから、かつて私が信じていたことをそのまま伝えただけ。何も、深く考えもせずに。
私も昔は一生懸命に打ち込んでいるものがあった。プロを夢見たこともあった。けれど、好きだと言い張ることに躊躇いが生まれた日から、私は上を目指せなくなってしまった。それを後悔して、未だに引き摺っている自分がいる。きっと、私がドライになったのはそれからだ。同情なんて欲しくなかったし、哀れんで欲しくもなかった、可哀想だと思って欲しい訳でもなかった。そうしたら、どんどん乾いて行っただけだ。影山飛雄にあの時かけたその言葉は、当時の私は嫌味のつもりで言ったのに。なんの躊躇いも疑いもなくバレーが好きだなんて言えるから。

さんにとってはそんなことでも、俺にとってはとんでもないことです」
「よく分からないわ…」
「俺、あの年スランプで、全日本でもずっとベンチだったかも知れないんです。そんな時、さんにああ言ってもらって、なんていうか、余計、やる気が出たっていうか」
「…………」
「俺の勘違いかも知れないスけど、さん、何か諦めたことあったんじゃないかって」
「…………」
「でも、俺にあんな風に言ってくれて、嬉しかったんで」

 馬鹿じゃないのか。あんな言葉を真に受けて、信じて今まで来たなんて。私がどんな汚い気持ちであの言葉を言ったかなんて知らずに。それすら読んでおきながら。
 ここまで言われて、今日影山飛雄が何を言いに来たか察しないほど愚鈍ではない。自意識過剰だと言われようと、自惚れ過ぎだと言われようと、この後言われる言葉を私は想像することができた。

「影山くんは、私なんかの言葉がなくてもやって行ける人でしょ」
「もちろんバレーやめるとかは考えませんけど、モチベーションの問題です」
「で、また私のご高説をご所望で?」
「ゴコウセツ……?」
「あーいいわ。影山くんが私に何期待してるか知らないけど、」
「好きです」
「…………」

 この野郎、言いやがった、と、汚い言葉を使わないようにしている私も、思わず心の内で突っ込んだ。言ってくれるな、と願った言葉だ。
 スポーツ選手の恋人というのは、献身的にその人を支えられる人が似合う。その人に何があっても受け止められるような、その人に尽くせるような、かつ、守りたいと思えるような可愛らしい女性が。私はその真逆だ。うんうんと話を聞くことはできるだろうが、寄り添うようなタイプではない。庇護欲をそそられるような人間でもない。たった一度の言葉で、私の何が分かるというのか。いや、ある意味分かるけれども。性格の悪さだけは。

さんはやめとけって言われましたけど、俺はそれでもさんが良いです」
「うん、誰が言ったかは検討ついたわ。別にいいけど後で文句の電話はしとく」
「しないで下さい」
「は?」
「あいつも一応男なんで」
「待って待って、私彼女になった覚えないんだけど」
「彼女になって下さい」
「ああだめだこりゃ」

 日本語が通じない。影山の天然具合はやばい、と何度か聞いたことはあったけれど、こういうことなのか。天然というか、素ボケというか、身近にいないタイプだ。どうすればいいのだろう、こういう時。

「…さんも昔、世界を目指していたって聞きました」
「…………」
「それができなくなったって」
「……そうだね」
「だから、俺が、俺の引退までさんを毎年世界に連れて行きます」
「……何言ってるか分かってる?」
「分かってます」
「影山くん、私のことよく知らないよね?」
「大学の時はずっと見てたんで、変わってなければそのままだと思います」
「……そうだね」

 そのままだ。大学生の頃から動けないまま大人になった。何かに熱中することもなく、恋人を作ることもなく、漫然と毎日を過ごし、ただこのまま何も起こらず生きて行けたら、と思っていた。何か夢中になるものができて、それを取り上げられた時の絶望を、私は忘れてはいない。それは恋愛だって同じだった。就職してから同僚に告白されたことだってあった。いい人だった。私がこれだけ乾いた人間でも、それでもいいと言ってくれた。けれど、私は拒否した。いつか手放すことになるのでは、という恐怖はどうしても拭い去れなかった。影山くんだって同じだ。今はそう言っていたって、分からないではないか。

さんがそのままなら、大丈夫だと思います」
「根拠は?」
「根拠……?なんとなくですけど」
「何か適当にフォロー入れるとかないの」
「フォロー……飽きっぽくないとかですか?」
「ふっ……ナニソレ」

 それじゃ遊び人のフォローみたいじゃない、と言えば、影山くんは慌て始めた。

「私、割と無感動なんだけど」
「知ってます」
「薄情だし」
「それも知ってます」
「他人にあんまり興味ない」
「興味ないんじゃなくて、持てないんじゃないスか」
「ねえ、スルーしたけど大学の時からっていつ見てたのよ」
「い、いや、それは、追々……」
「追々ってねえ……」

 もう付き合う前提の言葉ではないか。私の気持ちなんて丸無視で話を進めたりして。

「本当に毎年世界に連れて行ってくれるの?」

 何が人の心を変えるかなんて分からない。私の何気なく放った一言が影山くんの心を揺さぶったように。ずっとずっと、もう何年もずっと動くことのなかった静かな水面に、一石が投じられる。どれだけ優しくて格好良くて評判が良くて仕事のできる同僚からの誠実な一言よりも、何年も会っていない、よく知らない年下の後輩の友人に言われた確証のない夢のような一言に、感情が動くだなんて。馬鹿げてるな、と思う。同僚の好意を受け取っていれば、それこそ私の望む平凡な毎日が待っていたかも知れないのに。それを蹴って、今掴もうとしているのは平凡とはかけ離れた道だ。だって、今私にプロポーズまがいの告白をしているのは男子バレー日本代表の選手。平凡とは程遠い人物。こんな風に、怪我一つにはらはらしなければならないし、この先進展して行くことがあるとすれば、口出しをしてくる人間は山ほど出て来るだろう。鬱陶しいくらいに。
 それでも、なぜだろう。魅力的に感じたのだ。毎年世界に連れて行く、というその言葉が。あまりに力強かったからだろうか、もう決まっていることのように言われたからだろうか。ああ、そうだ、私は案外ちょろいのだった。

「約束します」

 誰にでも打ち明けられる訳ではない恋愛が、今始まった。









(2016/12/10)