「え、チョコレート欲しかったの!?」

 2月14日を過ぎて数日、夜遅くに私の部屋を訪れた影山くんはかなり不機嫌だった。インターホンに映った時からぶすっとした顔だったけれど、実際ドアを開けてみるとそれはもう酷い。またバレーのことで何かあったのだろうかと思えば、話を聞いてみるとそうではないらしい。14日は日曜日とはいえ、影山くんはバレーの、私は私で吹奏楽部の練習があった。当然会うことは叶わなかったわけだが、世間の騒いでいるバレンタインとやらには興味なんてないだろうとスルーしていたのだ。どうやらそれが気に食わなかったらしい。

「当たり前じゃないスか…」
「だって影山くん、甘いもの好きそうじゃなかったし…」
「それとこれとは別です」
「あー…ごめんね?」

 でもきっと影山くんなら大学でたくさんもらっていそうだ。チョコレートに限らず、甘いものを胸やけするほど。確かに今年は影山くんと初めて迎えるバレンタインだった。料理が上手い訳ではないが、自分で食べる楽しみのためにバレンタインは毎年お菓子も作っていた。今年ももちろん例に漏れず。けれど、結構な頻度で影山くんにご飯を作ってはいたため、まさか期待されていたとは思わなかったのだ。付き合って一カ月だとか半年だとか、そういうのも祝ったことはない。「そういえば何カ月だったね」とか言い合ったくらいだ。さすがにクリスマスはスルーすることはなかったけれど、バレンタインなんてクリスマスほどのイベントではないと言う認識だった。私の中では。

さん、部活で渡したんですか」
「まあ、女子はそういうイベント好きだから…て言っても、私が配ったのって業務用スーパーの徳用チョコレートだよ?」
「でも配ったのは配ったんですね」
「……影山くん、今日夕飯は?」
「まだっス」
「シチューあっためるから食べて行きなよ。その間に何か作ってあげる」

 玄関で立ち話もなんなので、中へ入るよう促す。大きなエナメルバッグを狭い廊下にぶつけながら、無理矢理私に連行される影山くん。
 そりゃあ、私だって会えるものなら会いたかった。それは2月14日だけじゃない、今だって満足に会いたい時に会えていないのだから、いつだって会いたいに決まっている。けれどその我儘を言って年下の彼を困らせるほど子どもではない。影山くんはまだ大学に上がって一年経ってない訳だし、バレーの練習だって相当大変だと聞く。負担にだけはなってはいけないと、それは常々思っていることなのだ。
 冷蔵庫に入れようとしていたシチューをもう一度火にかける。同じく冷凍保存しようと思っていたご飯も丁度炊き上がったようだ。手洗いを済ませた影山くんが、ふらふらとキッチンにやって来た。

「カレーじゃなくてごめんね」
さんが作ったものなら何でも美味いです」
「大したものなんか作ったことないんだけど…」
「大丈夫です、俺、作れないんで」
「それは自慢することじゃないって言うか…別に作れなくていいって言うか…」

 バレーに関して学習能力が高いと言うことは、その気になればなんでもできてしまうかも知れない。その気になれば、料理だって。それは困る。私がここに来た影山くんに唯一してあげられることなんてご飯をご馳走することくらいなのに、料理の腕まで私を超えてしまったらもう私ができることなんて何もない。

「シチューかける?」
「別が良いです」
「はいはい。…ちょっと、退いてくれるかな」
「嫌です」
「お皿出せないんだけど」
「俺が出します」
「あ、そう…」

 IHだからさほど危なくはないが、さすがにキッチンを使っている時に後ろから抱き締められると動きづらい。しかも私が離すのは駄目なのに、影山くんが自分から離れるのは良いらしい。影山くんは言った通り、食器棚からいつもカレーの時に使っているお皿を一枚取り出した。私にお皿を差し出すその顔には「早く食べたい」とでも書いてあるようだ。コンビニで何かちょっとでもつまんで来れば良かったものの、練習を終えて本当に真っ直ぐうちに来たらしい。
 嬉しいような、心配になるような。もうちょっと自分を省みて欲しいと思ったことは一度や二度ではない。本当はこうして厳しい練習が終わってから無理にうちに来ることも手放しでは喜べないのだ。それでも、うちで寛いでいる影山くんを見ると私も何も言えなくなってしまうのだが。つくづく甘いなあ、と思ってしまう。叱るとか、注意すると言うのは苦手な分野だ。

「ほら、これ持って行って食べてて。その間に甘いもの作るから」
「っス」
「あ、スプーンは…」
「この引き出しっスよね」
「よく覚えたねー」

 偉い偉い、と頭を撫でてやると、良くなっていた機嫌をまた損ねてしまった。影山くんって難しい。これ以上何か言われればせっかくのシチューもご飯も冷めてしまう。何か言いかけて口を開いた影山くんに「ほらあっち行く!」と追い立ててやった。
 影山くんの通う大学とうちの大学の距離は結構近い。だから、人脈の広い子なんかは、あっちの大学にいつの間にか知り合いをたくさん作っている。私は全く縁がなかったのだが、そんな円のない大学に通う影山くんと知り合うきっかけは部活だった。影山くんの大学の吹奏楽部とあっちで合同練習をした時、ゼミの関係で一人遅れて参加した私は、広いキャンパスで迷子になっていた。それを助けてくれたのが影山くんだったのだ。後から聞くと影山くんが私に一目惚れしたらしかったのだが、私もきっとそれに近かった。そうでなければ、「ちゃんと着いたか心配なんで連絡下さい」なんて渡されたアドレスにメールなんてしない。
 あんなことってあるんだな、と今になっても思う。友人に「漫画みたいじゃん!」なんて言われると、嬉しい半面少し照れる。

(余らせてるチョコチップがあったな…)

 あまり時間はかけられない。私は冷蔵庫の中から14日の余りのチョコチップと、棚からホットケーキミックスを取り出した。いつでも作れるものだが仕方ない。チョコチップを入れたホットケーキを作ることにした。チョコレート要素はあるからいいだろう。時々きらしている卵と牛乳が、今日は奇跡的に残っている。これはラッキーだ。
 テレビもつけずにシチューを黙々と食べる影山くんを見ていると、思わず頬が緩む。まさか今日突然来るとは思っていなかったから、シチュー以外の何もなかった。サラダでも作っていればよかったのだが、一人の時はそこまで気を回さないのだ。きっとあってもなくても影山くんは文句なんて言わないのだろうけど、私の自己満足の問題だ。
 様子を見ながらホットケーキの生地を作る。チョコチップを入れて作るのは初めてだったから、お店のように上手く行くか少し心配だったが、きっと失敗しても何も言わないのだろう。美味いです、といつものように言ってくれるのだ。嘘がつけないから不味い時はすぐに顔に出るので分かりやすい。よほど焦がしでもしない限りは複雑な顔はしないはず。

「ご馳走様でした」
「早いね…ちゃんと噛んだ?」
「はい」
「待ってね、今焼き始める所だから」
さんも早いスね」
「入れて混ぜて焼くだけだから」

 いつもだったらシチューのおかわりをする所を、今日はしないのはホットケーキの分を考えてのことだろう。持ってきたお皿を洗おうとするので止めたのだが、これくらいすると言って聞かない。

「お皿落として割って指を怪我したらどうするの」
さんだって同じです。怪我したら楽器触れないっスよ」
「私はいいんだって、音大生じゃないんだから」

 そう言うと、また唇を尖らせて私に後ろから抱きつく。私より随分大きな影山くんに後ろから来られると、抱き締められるというより覆い被さられているようだ。そんな影山くんが、私の首元に顔をうずめたのでくすぐったい。

さん」
「んー?」
「いつもスミマセン」
「なに、いきなり」
さん、いつも試合来てくれるじゃないスか」
「あー…まあ、そうね」
「でも俺、まださんが楽器吹いているとこ見たことなくて」
「そういえば、そうかも」

 言って、記憶を掘り返して見るが確かにない。昨年、トーナメント戦でたくさん勝ち上がった影山くんの大学は、たくさん試合があった。その殆どに行ったわけだが、私は影山くんとは違いたくさん本番がある訳ではない。だから、休みと合う確率を考えても難しいのだ、影山くんが私の本番を観に来るのは。私よりずっと練習量は多いし、遅くまでやっているし、たまの休日だって自習練をすることのある影山くんは、私があと一年在学している間にどこかで本番を観に来ることができるかはやはり怪しい。
 意外と、影山くんはいろんなことを気にするタイプなのだと、付き合って時間が経ってから分かった。私の方が「そんなこと気にしないのに」と言いそうになることが多いほど。それを言うと影山くんがますます落ち込んでしまうことに気付いてからは、心の中に留めてはいる。

「まあ、コンクールの予選と本選、スプリングコンサート、定期演奏会、大学祭、あとー…あと何かもうちょっとあるし、どっかで一回くらい観れたらいいんじゃない?」
「…………」
「多分、影山くん来ても寝るよ、コンクールとか」
「そ…んなこと、ありません…多分…」
「あはは!絶対寝るって。影山くんじゃ知らない曲ばっかだもん」

 笑いながらぽつぽつと穴のあいて来たホットケーキをひっくり返す。いい具合に焼き目のついた表面には、ちゃんとチョコチップが見えている。焼いていたら私も食べたくなって来たが、影山くんとは運動量が遥かに違う私が今食べたら体重に大打撃を受けるのは目に見えている。甘い香りだけで我慢することにする。
 もうすぐできるよ、と言いながらまだ私にくっついている影山くんを振り返ると、振り向きざまに不意打ちでキスをされた。キスなんて数えきれないほどしているけれど、今、どう考えてもそういう雰囲気ではなかった。残念ながら、さすがに不意打ちに対応できる私ではない。

「な…なに……」
「や、なんか…おいしそうだったんで…」
「美味しそうなのはこっちでしょ!?」
「そ…そうなんスかね…」
「ちょっと…自分の行動には責任持ってよ…」
「でも、久し振りじゃないスか」
「あ、ああ、うん、まあ…」

 改めて言われると、さっきの今なのでなんだか気恥かしい。無意味にもう一回ホットケーキをひっくり返して、そっちはあまりちゃんと焼き目がついていなかったので、更にもう一回ひっくり返した。

さん」
「な、なに」
「俺、さんが思っている以上にさんが好きっス」
「えっ!?あっ、そ、そう!?」
「はい」
「そ、そっか…うん、ありがとう…」
「はい」

 唐突な告白に、またもや反応できなくなる。もうそろそろ良いだろうと、IHの電源を切った。早く新しいお皿を出してホットケーキをよそってあげないといけないのに。焼きたてがおいしいのに。それなのに、未だ私のお腹辺りに腕を回したまま離れようとしない影山くんは、何かを待っているようだ。恐らく、影山くんの期待通りのことをしないと離してはくれない。後ろを向くのは絶対に恥ずかしいので、私はフライパンの真ん中にいるホットケーキを見つめた。

「あ、あのね」
「はい」
「私も、影山くんが好きで、よかったか、なー…」
「…………」
「よ……よかったよ!」
「…っス」

 言い直すと満足そうな顔をする。さて、そろそろ本当にお皿を出そう。腕を解こうとすると、それに反するようにますます力を込められる。少し、苦しい。最近、少し会わなさ過ぎたのかも知れない。いつもはここまでひっついて来ることなんてないのだ。ベタベタなんてしない方だし、離れてと言えば素直に離れる。
 私はどこかで大丈夫だと決めつけていた。影山くんにはバレーがあるから、私なんて、恋愛なんて大学生活のオプションの中の一つなのだと。それを多分、見抜かれていた。だからさっき、私が思った以上に私を好きだなんて言ったのだろう。私の考えが、不安材料の一つになってしまっていたのかも知れない。そんなつもりはなかったのだ。ただ、負担にだけはなりたくない一心だった。だって私も好きなのだ、影山くんが。

「だから…だからね」
「はい?」
「また、ご飯食べに来てよ、いつでも」

 私にできるのはそれくらいしかない。私もベタベタしたり甘えたりする方じゃないし、愛情表現が上手いかと言われれば全くそうでないだろう。好きだのなんだの、恥ずかしげもなく言えるような人間でもない。だとしたら、私の誘い文句はそれくらいしか思い浮かばなかった。けれど、また影山くんは嬉しそうにするともう一回私にキスをした。










(2016/02/16)