ふと目を覚ましたら、目の前には服を着ていない剥き出しの背中があった。そこには赤いひっかき傷が複数。何があったんだっけ、と寝ぼけ半分の頭で記憶を巻き戻してみる。ああ、そういえば昨日の夜はいきなり飛雄くんが押し掛けて来たかと思えば何も言わずに雪崩れ込んだのだったか。大抵そういう時は彼の調子が悪い時や試合などに負けた時で、非常に分かりやすいのはいいことだがなかなかに厄介だった。
 セックスが嫌な訳ではない。その後だるいのが嫌なのだ。彼と違ってごく普通の会社員をしている私に彼のような体力はなく、文字通り私の限界まで貪られる。そうして結局何のフォローもなく、次の朝には元通りなのだ。

(甘やかしすぎなのは分かってるけど…)

 彼にとっても私にとっても、この状況はよろしくないことくらい分かっている。けれど如何せん飛雄くんは私の話を聞かないし、私も憔悴した彼を叱責できるほど心の強い人間ではなかった。普段は何の問題もない恋人同士だし、交際は至って順調と言える。ただ一つ、これだけが飛雄くんの悪い癖で、それを正すことのできない私の過ちだろう。
 背番号一桁を背負う日本代表のオフの顔には、意外と弱い所があるのだ。調子が悪かろうと試合に負けようと、決して弱音も吐かず、言い訳もせず、背筋を伸ばして立つ―――そのしわ寄せはいつも私にやって来る。
 信頼されているからこんなことになっている、と言えば良いのか、悪く依存していると言えば良いのか。恐らく後者だ。

(だからって私まで拒んだらどこに行き先があるのよ、この子)

 まだ規則正しい寝息を立てる飛雄くんを見て何度目かの溜め息をついた。他の方法で発散できればいいものを、最初に教えてしまったのは私だったのが悪かった。いや、もう既に当時から恋人同士ではあったが、弱っている時に私が体を差し出したのがそもそもの原因だ。「私で良かったら好きにしていいよ」と言ってしまったこと、それは私も忘れてはいない。
 あの時、もっと違う言葉をかけていれば。もっと違う対応をしていたら。もっと違う接し方をしていたら。そんなことばかりを最近は考えてしまう。恋愛経験が豊富な訳ではないが、セックスの後って、いやセックス自体こんなにも憂鬱なものだっただろうか。

「…さん……」
「ん、おはよう」
「おはようございます」

 飛雄くんのことは好きだ。これさえなければ、本当に問題のない恋人だ。こう見えて私の誕生日をしっかり覚えていたりするし、毎年私の喜ぶプレゼントを用意してくれる。作ったご飯を美味しいといつも完食してくれる。私が疲れている時には言葉少なく甘えさせてもくれる。忙しい中で私との時間を大事にしてくれる。一緒に寝たからと言って毎回毎回、事に及ぶ訳でもない。ほら、普段の関係になんの不満があるというのだろう。
 だから何も言えない。私には分からないストレスや重責があって、それを上手く発散できないことを私は分かっている。飛雄くん自身が分かっていないだけで。

「朝、どうする?ご飯でもパンでもあるけど」
「ご飯で」
「ん。じゃあ先に起きてるね。ゆっくりでいいよ」

 まだ随分眠そうな飛雄くんの頭をくしゃりと撫でて私はベッドを抜け出す。いつものことだ。飛雄くんを置いて私が起きて、服を着替えて朝ご飯の準備をする。その間にのそのそと飛雄くんは起きて来て、ご飯仕度が整う頃にいつもの顔が戻って来るのだ。
 それが、今日はそうならなかった。ベッドから降りようとした私を、飛雄くんは後ろから抱き締めて引き止める。

「飛雄くん?」
「すみません」
「なに、どうしたの」
「すみません、さん」
「…………」

 後悔の色を含んだ声。そう、彼は彼なりに翌朝反省している事も私はよく知っている、知っているのだ。それを分かった上で、どうやって彼を遠ざけることができるというのだろう。
 大丈夫だよ、と、本当はあまり大丈夫じゃない癖に答える。私の肩に額を乗せて、落ち込む様子を見せる飛雄くん。諭すようにその頭を撫でると、私を抱き締める腕には一層力が込められる。
 飛雄くんは強くない。私が出会った時から、もうずっと。バレーを離れればこんなにも弱い。それを見せられて、どうやって突き放すことができようか。他に頼る所を知らず、こうすることしかできない彼を、どうやって叱責することができようか。最初の原因は私にあるというのに。

「飛雄くん」
「…なんですか」
「朝ご飯はやめ。もうちょっと寝よ」
「…………」
「私もまだ眠いし」
さんが、そう言うなら…」

 すると、私を絡め取っていた腕が離れる。そしてベッドから下ろしていた両足をもう一度ベッド上に戻す。ほら、と飛雄くんを促して、向かい合ってもう一度ベッドに入った。今度は私が飛雄くんの胸に額を押しつける。そんな私の頭を恐る恐る撫でる手は大きい。その手が背に回り、私の体を引き寄せる。もういっそ、このまま一つに溶けてしまえれば、と思った。ああ、でもそうすればまた飛雄くんは行き先をなくすのだろうか。それとも私以外の誰かに縋りに行くのだろうか。これだけ私も後悔しても、それだけはどうしても嫌で嫌で仕方がなかった。他の誰かの所へ行ってしまうくらいなら、私を選び続けて欲しい。私の後悔が続いても、飛雄くんの後悔が続いても。
 カーテンの外からはもう光が透けて見えている。時計をちらりと見れば九時を回っている。それでも、もういい。もういいのだ。







(2016/01/08)