「まだ三時だぞ」

 キッチンで水を飲んでいると、不意に後ろからかかった声。冷たい水ですっかり目は覚めたものの、体は重く振り返る動作も遅い。けれど声の主は分かっている。この家には私と黒尾しか住んでいないのだから。

「眠れないのよ」
「そう言って昨日も三時間くらいしか寝てねえだろ」
「黒尾は寝てていいよ」

 苦笑いして就寝を促すも、黒尾はその場から動かない。ガシガシと頭を掻くと、私に近寄り後ろから抱き締めて来た。私をすっぽりと隠してしまうほど体格差のある彼の腕の中にいる時が、今は何よりも安心する。けれど、いくら黒尾に包まれていても、うとうとはすれど本格的な眠気はやって来ない。瞼は重くなるものの、目を閉じる手前ではっと目が覚めてしまう。

「一回一緒に病院行くか?」
「うーん……」
「そんなんじゃの身体が持たねーぞ」

 確かに随分消耗はしている。けれど、私以上に黒尾だ。私に付き合って夜中に起きて、またベッドに戻るまで傍にいてくれる。満足な睡眠がとれていないのは黒尾の方なのだ。これでは黒尾の生活に支障を来してしまう。彼は仕事だってあるのに。
 コップを軽くゆすいで食器かごに戻すと、私に回された腕に両手をそっと添えた。寝よっか、と言うとその腕は離れる。代わりに手を引かれ、誘導されるようにベッドに戻った。
 もう二カ月はこんな生活を続けている。二週間ほど続いた時点で私は出て行くつもりでいたのに、黒尾が決してそれを許してはくれなかった。お陰で今もここで生活することができるのだけれど、いつまでも甘えてはいられない。

「明日…病院行こっかな…」
「んじゃ、俺も」
「え?仕事は?」
「最近上司から有給使えってうるさく言われてっからな〜」
「それ本当なのー…?」
「ま、は気にすんなって」

 私の前髪を二、三度撫でる。その手のひらは大きくて、温かくて、ずっと触れていて欲しいとさえ思う。いや、できることならずっと夜でいて欲しい。そうすれば黒尾は仕事に行かなくて良いし、私も眠気が訪れるのを時間など気にせず待つことができる。何より、ずっとこの至極の安心を感じていられるのだ。
 ああ、病的だな―――そこまで考えて我に返る。そんなことがあるはずないのだ。必ず朝はやって来て起きなければいけないし、一日の半分は黒尾と離れていなければならない。そんな当たり前のことに耐えられなくなったのはいつからだっただろうか。

「黒尾」
「なんだー?」
「ごめんね」
「こう言う時はありがとうって言うんだよ」
「…ん」

 何度も何度も、「ごめんね」を繰り返した。その度に黒尾も同じ言葉を繰り返して、いつも同じ優しい笑みをくれるのだ。
 もう疲れたと言われないように、ある日突然黒尾がいない朝が来ないように、いつまでも優しくしてもらえるように―――それでも今の私には返せるものが何もない。だから一層繰り返して眠れなくなるのだ。朝が来ませんように、と。









(2015/03/31)