全日本代表の背番号一桁を背負う後ろ姿。それをずっと追いかけて来たのは私で、それが誇らしかったのも私で、その後ろで支えているのも私。その道を選んだのさえ私だ。多少のことは我慢できたし、彼のためにできることなら何でもしたかった。けれどそれは自己犠牲なんてものじゃなくて、全て私が選択して来たこと。私がこう言うと大袈裟だが、その辺の恋人たちとなんら変わりのない交際を私たちはしていた。
 そんな中、結婚まで秒読み段階に入った時に、私と彼はとんでもなく大きな喧嘩をした。きっかけなんて、ほんの些細なことだった。半年と少し前のことが原因だ。













 前の試合の映像を見ている飛雄くんに背後から抱きつくと、私はある資格試験を受けたいことを伝えた。勢い良過ぎたのか、飛雄くんはげほげほと噎せ込んでいる。
言い出しにくいことを伝える時、顔を見られないようにいつも後ろから抱きつくのが私の悪い癖だった。

「資格試験?」
「そう。半年先なんだけど、どうしようかなって」

 取っても取らなくても今の仕事に支障はないけれど、取っておいた方がいざという時に役に立つ。生活に困っている訳でもないけれど、資格手当もつくようになる。そう聞けば何となく受けようかな、と思った。軽い気持ちだったから、受かろうが落ちようが別に構いはしない。今の仕事に響く訳でもない。ただ、私は未だ足踏みをしたまま、申込書を書けずにいた。

「珍しいな、仕事のことで相談なんて」
「んー…ちょっとね」

 確かに、飛雄くんには普段仕事関係のことは相談しない。お互い全く違う分野だから話してもあまり通じないし、私が余計な心配をかけたくなかったのもある。
 同じように飛雄くんだってバレーの話は私にあまりしない。そりゃあ、いついつ試合があるとか、いつどこで合宿があるとかいう話は聞くけれど、詳しい話は私には理解できない。チーム内のことなんて尚更。だから、私の突然の言葉に彼は一瞬困惑してみせた。
 もう数年の付き合いにはなるけれど、だからこそそれなりのコンプレックスもあって、飛雄くんの隣にいて恥ずかしくない女でいたいと思う。それがあっての資格試験なのだが、どうしても「落ちたらどうしよう」という思いが先行する。要は自信がないのだ。合格率もさほど高くない上に、勉強嫌いの私が試験を受けるなんて。だからこれは、ちょっとした甘えだった。背中を押されれば、応援してもらえれば、頑張れる気がした。

「難しいことはわかんねーけど、が受けたいなら頑張ればいいんじゃねえの」
「…………」
「オイなんだその顔」
「や、そんなまともな答えが来ると思ってなくて」
「俺をなんだと思ってんだボゲェ」
「いや…うん…言わせるの?」
「いい、言うな」

 ようやくくっついていた彼から離れ、今度はすぐ隣に座る。彼に凭れてみると、やや照れながら「なんだよ」と口を尖らせる。私が邪魔をしたせいで、試合映像は一時停止されたままだ。でも追い払わない辺り、私も一緒に試合映像を見てもいいらしい。話がひと段落つくと、また飛雄くんはテレビの再生ボタンを押した。
 そして、彼の腕がもぞもぞと動いたかと思うと、私の頭をぎこちなく撫でた。付き合いたてでも何でもないのに、こういう雰囲気でこういうことをするのは相変わらず慣れないらしい。

「合格したら」
「ん?」
「合格祝いするぞ」
「はい?」
「一回で聞け」
「聞いてるけど…なに、お祝いしてくれるの?」
「って言ってんだろ」

 一体誰の入れ知恵なのか、こんなことを思いつくような人間ではなかったはず。私の就職が決まった時だって、就職活動というものをしていない飛雄くんの感動は薄かった。「ああ、おめでとう」くらいだったのに。これが大人になったと言うことなのか、空気が読めるようになったということなのか。嬉しいを通り越していっそ感動してしまったのだが、なかなか反応しない私に、飛雄くんは訝しげな表情を見せた。

「文句あんのかコラ」
「ないってば!…嬉しいだけ」





 その後すぐに試験の申込書を書いて提出し、翌日から試験の勉強も始めた。それは想像以上に苦しかったし、辛かったし、もう駄目だ落ちた合格できるはずがない、と泣きたくなることもあった。けれど試験の日はやって来るし、その結果発表の日もやって来る。合否結果の封筒を前に一人で睨めっこし、開封する勇気が出る頃には夜になっていた。
 その結果を誰よりも早く飛雄くんに聞かせたくて、おめでとうって言って欲しくて、帰りが遅くなると聞いていたけれど待っていたかった。眠くなりながらも寝ずに待っていた。けれど、帰って来た飛雄くんに声をかけようとしたら「疲れてるから明日にしてくれ」と言われ、私の中の何かがプツリと切れた。そこから何だかんだと言い争って、この半年間辛かったことが全部押し寄せて来た。
 飛雄くんが悪い訳じゃない。試験を受けることを決めたのは私だし、色んな事を我慢していたのは私だけでもない。私が勉強に専念するからと、飛雄くんに我慢させたこともたくさんある。
 別に今日じゃなくてもよかったじゃないか、一日待って、明日の朝報告すれば。それでも期待をしていた。楽しみにしていた。おめでとう、って言われるのを、一番に言ってもらうのを。

(ばかだ…)

 合否結果の入った封筒は飛雄くんに投げつけてしまった。いつもだったら抱きつく背中に、痛くも痒くもないペラペラの封筒を投げつけた。物なんて投げたことがないからか、とても驚いた顔で振り返った飛雄くん。
 勝手に怒って、勝手に拗ねて、さっきからずっと部屋に閉じ籠っているけれど、さすがに呆れられただろうか。今になって後悔の波が押し寄せて来るけれど、謝りに行く勇気が出ない。それなのに涙だけは止まらない。
 ちゃんと合格したのに、嬉しいはずなのに、お祝いしてもらうはずだったのに。こんなにも自分勝手に怒ったら、もう「おめでとう」すら言ってもらえないかも知れない。それどころか、これでそれとなく話していた結婚の件がなくなったらどうしよう。こんなことくらいで喧嘩してしまって、修復できなかったら―――。



 ぐずぐずしたままドアの内側で座りこんでいると、外から名前を呼ばれた。ぎくりとして身体を強張らせる。返事をできずにいると、もう一度「」と呼ばれる。その次に繋げられた言葉は、思いがけないものだった。

「悪かった」

 それは怒ってはいない声。そして謝罪の言葉。話を聞かなくて悪かったとか、試験のことを忘れていて悪かったとか、ドア越しに色々と謝られる。謝罪が続けば続くほど、飛雄くんの声は憔悴して行く。てっきり無理矢理にでもドアを開けられるかと思っていた私は、緊張が解けてしまった。ゆっくりと立ち上がり、ドアにぴたりと手のひらをつける。
 このドア一枚向こうに、飛雄くんがいる。多分、あの大きな体で落ち込んでいて、肩を落としている。そんな姿は容易に想像できた。試合に負けたりすると、稀にそんな風になっていたからだ。
 許してもらえるのだろうか、あんな風に怒ったのに。一度引っ込んだものの、また泣きそうになりながらそっとドアを開けた。

…」
「…………」
「合格、したんだな」

 飛雄くんの手には、さっき私が投げつけた合格通知が握られている。私の顔を見た飛雄くんは、ほっとしたような、気まずそうな、複雑な表情を浮かべた。
 ほっとしたのは私の方だ。これで別れを切り出されたら、なんて最悪の展開まで想像した。全部終わって、たくさん甘えたかった。褒めて欲しかった。がんばったな、って言って欲しかった。もう全部叶わないかと思ったのだ。
 返事をしない私に「合格だよな?」と焦りながら確認をとる飛雄くん。私の顔を覗き込まれたその瞬間、頷く代わりに飛雄くんに抱きついた。いつもみたく後ろからでなく、ちゃんと正面から。

「合格、した」
「…おう」
「ごめんね…っ」

 大好きな背にしがみつく。いつもは見守るだけの後ろ姿。こうして二人で家にいる時だけ、私だけのものになる。日の丸を背負う大きな背は、私だけを抱える人になる。私だけが甘えられる人、私だけを甘えさせてくれる人。
 どくんどくんと、心臓の音が聞こえる。ずっと速いままだった心臓が、ゆっくりと平常通りに戻って行く。やがていつものテンポに戻ると、飛雄くんは私の顔を両手で包んで上を向かせた。

「おめでとう、

 そして短いキスをひとつ落とすと、力いっぱい私を抱き締めてくれる。だから私も、同じだけの力を背中に回した腕に込めた。







(2015/03/07 Du bist die Ruhさまへ)