この春、栄養士の資格を取得した私は、とある大学の学生寮の食堂に就職した。学校給食や学生寮の栄養管理のため、こういった場所に就職する傾向にあったうちの学校では特に何も言われる事もなく卒業もできた。ただ、高校の延長のような専門学校を経て社会人になると、何か、大切な過程をすっ飛ばして社会に飛びこんでしまったような気になる。
 失敗したかな、と思った。実際、栄養士なんて名ばかりで調理師と同じ仕事をした上、雑用が多く、更には毎月栄養バランスを考えた献立作り。私と同い年の学生がやって来るこの職場で、彼らは随分輝いて見えた。
私はスポーツには詳しくないが、あらゆるスポーツ全般が強い大学だ。その中でも私が任せられているのは男子バレー部の学生寮な訳だが、毎日厳しい練習をした後で食堂にやって来れば、まだまだ育ち盛りの彼らはとにかくまあ食べる量がものすごい。毎日厳しいだとか疲れただとかいう声が聞こえて来るが、それでも日に日に沈んで行く私に比べれば充実感と言うものが窺える。
 私、就職先を間違えたかも知れない。

ちゃん、その隈は酷いよ〜!」

 来月の献立表を貼り替えながら溜め息をついた瞬間、そこに現れたのは及川だった。まさに彼が私と同い年の学生で、ここのバレー部のなんだかすごい選手らしい。学生に選手と言うのかどうかは分からないが。

「人の顔見る度に悪口言わないで下さい」
「やだなあ、心配してるんだよ。同じ歳だって言うのにちゃんがそんな顔して生きてるなんて…」
「悪気がないと言うのは大変腹立たしい…」
「ごめんごめん。ほら、食事アンケート」
「…どうも」

 及川に言われなくとも酷い顔をしているのは分かる。最近は仕事以外でも落ち込んだり悩んだりする案件がいくつかあったのだ。社会人になり半年、毎日の“仕事辞めたい病”は止められないものになっていた。仕事以外に一生懸命やっている物なんてないし、そもそも仕事も一生懸命やっているのかどうか怪しい。志を持って部活に励む同年代の彼らを見ていて卑屈にならない人間がいるだろうか。少なくとも私は「私もがんばるぞ!」なんて思える性格ではなかったのだ。
 この週に三回の食事アンケートも、少しでも美味しい食事を提供できれば、と私が今年から始めたものだったが、結果は毎度散々だ。肉が足りないだの、ピーマンが多いだの、魚は要らないだの、小学生かと思うような回答ばかり。もちろん毎回全員からアンケートをとっている訳ではないが、結局自分の首を絞めるだけになってしまった。一度始めたものをこんな中途半端な時期にやめる訳にも行かず、今年度いっぱいで中止することに決めているが、それまでこれが続くのかと思うと私の精神的ダメージは結構大きい。

「あ…」
「なになに」
「“うまかったです”って…」
「よかったじゃん」
「いや、うん、良かったんだけどね」

 定期的に現れる、“うまかったです”とだけ書かれた回答。小学生みたいな走り書きで、でも文字は右上がり。上昇志向の強い証拠だ。毎回ではないが時々ひょっこり顔を出すこの一枚だけが、唯一このアンケートを実施して良かったと思う瞬間だ。ただ、アンケートはもちろん匿名にしてあるため、誰が書いてくれたものかは分からない。そういや以前、厨房がカレーの日に牛肉と間違えて豚肉を大量発注してしまい、豚肉入りのカレーになった時も、この子だけが“今日もうまかったです”と書いてくれた。それ以外は全部カレーに豚肉は有り得ないというような回答だったのだ。

「…ヘタクソな字」
ちゃん照れてるー!」
「照れてない!」

 その後、私をからかうだけからかうと、及川は自室に戻って行った。多分、こうして上手い具合に私のガス抜きでもしてくれているのだと思う。厨房の他のスタッフはみんな私よりずっと年上のおばちゃんたちだし、学生は男子ばかりだし、職場に仲間がいないこの状態。あんなでも面倒見のいい及川は気にかけてくれているのだ。
 とはいえ、及川との間には笑えるほど何もない。私が学生寮の栄養士をしていると言うと、高校辺りの友人からは学生と“何か”ないのかと輝いた目で迫って来る。だが実際、部活のことで頭がいっぱいな彼らが冴えない顔した同年代の栄養士一人に構うはずがない。しかもこの年代の男子学生が興味を引かれるのはグラマラスな姉ちゃんなのだ。私がとても美人でスタイルも良い栄養士だったら別だが。
 私も私で、見上げるほどに大きい彼らは、年下も含め身長だけで割と恐怖の対象である。及川は別として、私の記憶の限りで運動部と言うのは乱暴なイメージがあったので、それもあって就職先を完全に間違えたとこの半年思い続けて来た。

「辞めたい…」
「辞めるんスか」
「あ、いや、口癖……え?」

 ゴン、と掲示板に額をぶつけていると、今度は聞き覚えのない声が後ろからかかる。また振り返ると、そこには見たことはある学生の一人が立っていた。これもまた、首が痛くなるほど背が高い。そして目付きが悪い。何も悪いことなどしていないのに、その威圧感で私は責められているような気分になった。

「辞めるんスか、さん」
「えーと…誰、でしたっけ」
「一年の影山です」
「あ、ああ…そう…」
「それで、ここ辞めるんスか」
「べ、つに!今すぐ辞める訳じゃ…!他に仕事もないし!」

 同じ問いを繰り返す度に距離を詰めて来る影山くんが怖くて、思い切り叫んで彼を押し返した。お願いだからその顔で寄って来ないで欲しい。ただでさえ小心者なのにこれ以降トラウマになってしまう。
 しかし私が退職を否定すると、やや表情から険しさがとれた。ただ、私は不思議でしょうがなかった。これまで一度も話したことのない一年生が接触して来たのだ、驚かずにはいられない。確かに私はこの食堂の栄養士としてこの春に寮生の前で紹介されているが、ちゃんと認識されているとは思わなかったのだ。
 掲示板にぶつけた額を摩りながら、とんでもない独り言を聞かれてしまったと今更ながら反省した。誰が見ているか分からない所で愚痴など零すのではなかった。もしこの件が監督や管理人の耳に入ったら、今のような問い詰め方では済まなかったかも知れない。

「ところで、まだ帰らないんスか。もう八時半なんスけど」
「え?や、これから帰るとこ…」
「送ります」
「は!?」
「こんな時間に女の人が一人で歩くのは危ないんで」
「や、いいって、家すぐそこだし…!まだ八時半だし…!」
「すぐそこでも夜は夜です」

 寧ろあなたの方が怖い。さすがにそう言うことはできず、結局この運動部特有の目の鋭さに勝つことができず、結局歩いて十分もかからないような家まで送ってもらうことになってしまった。寮生がこんな時間に寮を出ることこそ問題なのでは、と言ったが、これくらいしてるやつは他にもいます、だのなんだの言って全く取り合ってくれない。及川にでもばれたら「うちの後輩を誑かすなんて!」と誤解を生みそうな発言の一つや二つしそうなものだ。
 そもそも、なぜ突然影山くんが私を送ることになっているのか。いや、理由は先程彼も述べた訳ではあるが、腑に落ちない。それに、これまで一切話したことのなかった相手と突然夜道を歩くことになって、一体何を話せと言うのか。

「…………」
「…………」
「…………」
「…………」

 ほら見ろ、やっぱり沈黙だけだ。こんな気まずい帰り道なんて経験したくなかった。仕事で散々疲れたのだから、せめて帰りくらい心穏やかにいさせて欲しいのに。気まずさだけが存在するいつもの帰路。何を考えているのかと、影山くんをちらちらと見上げてみても、向こうは少しもこっちに視線をくれやしない。いつもはすぐ家に着くはずなのに、今日は随分と長い道のりに思える。スポーツに疎い私がバレー部の話を振れるはずがなく、そもそも初めて話す相手に話題を提供できるほど私のコミュニケーション能力は高くない。彼もそうなのか、単に無口なのか、口を開こうとする素振りすら見せない。私に一瞥もくれないのだから当然と言えば当然か。
 切り取ったような丸い月は銀色に輝いている。今日は丁度満月らしいが、どおりでやたら今晩は辺りが明るく見えた。

「…聞いていいスか」
「へぇっ!?」

 もうこのまま何も話さず家か、と思ったその時、突然降って来た声に変なリアクションを取ってしまった。思わず私の足が止まる。すると、影山くんも一、二歩先で足を止めた。

「及川さんとは付き合ってるんですか」
「及川?」
「仲が良いようなんで」
「…仲良く見えるんだ」
「違うんスか」
「違います」
「じゃあ…」
「彼女でもありません」
「…………」

 何とも形容しがたい顔をした。この後「俺、及川さんが好きなんで」とかいう言葉が続かないことを祈る。だが、それ以上影山くんは何も言うことなくまた歩き出した。なので、私も黙って後をついて行く。というか、この子は私の家を知らないのに先を歩く気か。

「ちょっと影山くん」
「な、なんスか」
「何その顔…」

 口を尖らせて随分複雑そうな、というか怖い顔をしている。私の回答がそんなに不満だったのか、文句があるのか、思いっ切り言いたいことがありそうな顔をしているものの、その“何か”を言い出そうとしない。
 いいなあ、と思った。大学生と言うのは猶予期間だ。大人になるための、社会人になるための猶予期間。けれど私は違う。そういったものが何もないままここに来た。仲間と共にスポーツに汗を流す訳でもなく、これと言った大きな思い出がある訳でもなく、青春と呼べる時間は過ぎ去ってしまった。こんな風に喜怒哀楽を顔に出すことも、社会の中では許されないのだ。及川にしろ影山くんにしろ、表情をころころと変えられることが羨ましかった。もちろんその裏には大きなな努力があることを知っている。毎日見ていれば分かるのだ。彼らだって遊んでいる訳じゃない。大学生と言いながら、本来遊ぶことのできる時間もバレーに費やしている。だからこそ眩しいし、見ていて苦しくもなる。

「辞めないで下さい」
「は…?」
「食堂、辞めないで下さい。さんの料理食べられなくなるの、嫌なんで」
「別に私が作ったわけじゃないけどね…」
「でもメニューを考えているのはさんだって監督も言ってました」
「それが仕事だから」

 可愛くないなあ。自分で言っておいて溜め息しか出ない。素直にありがとう、と言えば良いだけなのに、卑屈モードに入ってしまった頭ではまともな回答もできやしない。普通だったらこんなことを言われれば嬉しくて仕方ないのだろう。職場での自分を必要としてくれている人がいるなんて、それこそ働き甲斐に繋がるというのに。
 冷たく突っぱねた私に、影山くんは随分焦っているようだった。年下相手に大人げなかっただろうか。社会人としての余裕も冷静さも何もかも足りない。けれど、もう結構限界に近い所まで来ているのだ。職場に仲間はいないし、私一人でしないといけない仕事も多い。よかれと思ったことが裏目に出ることもあるし、心細いし、失敗もするし色んなことを指摘もされる。仕事におけることからそれ以外のことまで。誰にも味方されない世界と言うのは酷く孤独で辛いものだ。
そういうこと全部、何も知らない癖に「辞めないで下さい」と言われても、トドメを刺されたも同然だ。影山くんに何が分かるの、と思わず言いそうになった。けれど幸いにも、喉に何かが詰まったように言葉が出て来なかった。
 多分、泣きそうな顔をしていたんだと思う。今度は困ったような顔をして「泣かないで下さい」と言われてしまった。泣いてるつもりはなかったし、実際泣いてもいなかった。目は熱かったけれど、頬を涙が伝う感覚もない。

さんのメシ、うまかったです」
「何、いきなり」
「今日だけじゃなくて、昨日も、その前も、ずっと」
「だから何」
「カレーに豚肉が入ってた日もうまかったです」

 カレーに豚肉―――あの日のことを蒸し返されてかっとなったが、すぐに我に帰る。あの日、食堂では文句しか出なかった。わざと私に向かって言った訳ではないけれど、不満や文句を間近でたくさん聞いた。辛かった。そんな中で、たった一枚の食事アンケートで私は泣くほど嬉しかったことを覚えている。仕方なくおかわりに来る学生たちの中、一人だけ嬉しそうにやって来た学生を覚えている。忘れる訳がない。社会人になって一番落ち込んで、泣いた日だった。

「毎月これくらいの日にさんが献立作りで遅くまで残ってるの知ってます。だから毎日のメシに文句なんてつけません」

 それだけで良かった。特別な言葉なんて何も要らなくて、労いなんて後で良くて、ずっと欲しかったのは“おいしかった”の一言だけだった。なのに、その一言を得るのがこんなにも難しくて、こんなにも苦しいことだらけで、本当に辞めようと思っていた。もう今年度いっぱいかな、と思っていた。本当にそのつもりでいたのだ。学生たちからも、調理スタッフたちからも文句しか言われないなら、いっそ辞めて違う職についた方が良い。こんなことなら調理師免許を取って作る側になればよかったとも思った。この仕事に就かなければ、と。誰からも感謝されないならば。

「俺は、これからもさんのメシが食いたいです」

 なんていう殺し文句だろう。正しく言えば私の作ったご飯でも何でもないのだが、そこはさすがに訂正しないでおく。
 私には勿体ない言葉だ。でもずっと欲しかった言葉だ。文句でも不満でもなくて、私を認めてくれる言葉。これまでの辛いことや苦しかった言葉の上に、今の影山くんの言葉が覆い被さった。
 こんなにも卑屈で、こんなにも後ろ向きで、もう今にも仕事を投げ出しそうになっていた。毎日が一生懸命な彼らからすれば、私みたいないち栄養士なんて取るに足らない存在だと思っていた。私を私と認識されず、“食堂の人”で一括りにされていてもおかしくない、いや、されているだろう。
 けれど影山くんは見ていてくれた。私が毎月献立作りに頭を悩ませていることも、そのせいで帰りが遅くなっていることも。私の知らない所で、苦しさも辛さもちゃんとプラスへと実っていたのだ。マイナスとマイナスをかければプラスになると、誰が言ったのだったか。

「影山くん」
「はい」
「元気出た」

 今度は素直にそう言うと、「なら良かったです」と表情を少し和らげて見せた。そんな影山くんの向こうに、まだ満月は輝いていた。







(2015/1/15 夢企画『Confessione』へ提出)
Thanks...はこ