慣れない仕事に疲れ、残業二時間を終えて職場から出ると、門のすぐ外には今泉くんがいた。制服にマフラーを巻いている彼は、何やらイヤホンで音楽を聴きながら門に凭れている。これは夢か何かなのかと目を擦り、何度も瞬きをしてみる。けれどそこにいる人物は視界から消えない。とうとう私に気付いた彼に「お疲れ様です」と言われ、はっとした私は「お、お疲れ様!」と裏返った声で返事をした。

「今日、遅くなるって聞いてたんで」
「い、いや、言ったけどなんで!?」
「暗いですし、危ないと思って」

 時計を見ると、のんびり着替えていたためもう十九時半を回ろうとしている。未成年を連れ回していい時間はもうすぐ終わり告げる。我に返った私は、なんで、とか、どうして、とか、危ないのはそっちでしょ、と捲し立ててみる。けれどそれら全てをかわして今泉くんは仕事終わりの私の首に自分の使っていたマフラーを巻く。

「風邪ひきますよ」

 答えになっていない。にも拘らず、不覚にもそんな不意打ちにどきりとしてしまった。
 最初は有り得ないと思っていた高校生との恋愛。私はもう悠に二十歳を越えている。仕事にも追われ、そんな時にはやはり甘えられる年上の彼氏がいい、なんて彼氏いない組の友人とは常々話していた。けれど実際の年上の男と言うのは逆にやたら甘えたがったり我儘放題だったり、自己中心的でこっちの事情などお構いなしだった。何かと面倒な記憶しかない。私が甘え下手なのもあったのかもしれないが。
 そんな中、高校の後輩に紹介されたのは、そのまたいくつか年下の現役高校生である今泉くんだった。これがまた高校生とは思えないくらい落ち着いており、今時の、とは言い難い人物だったのである。更には私は仕事、今泉くんは部活、とお互いに忙しいため文句が出ない。

さんが呼んでいるような、まあ…そんな気がしたんで」

 今泉くんには私の心細い時感知センサーでもついているのかというこの鋭さ。高校生ゆえに年上の私に対して大人ぶりたいだけなのか、これが彼の素なのかはまだよく分からない。けれど、こういう時の勘の良さとストレートさだけは、今泉くん以上の人に出会ったことがない。
 これに私は弱いのだ。高校生なんて、と正直ナメていた。向こうだってすぐに飽きるだろうし、本気でこんなにも年上の女なんて相手にする訳がないだろう、と。歳の差なんて数えたくもないくらいだ。大体、私の後輩も後輩だ。なぜ私に今泉くんを紹介なんてしたのか。普通、もっと歳が近くて趣味の合いそうな女の子を紹介するものではないのか。二十代の私では、億が一このまま今泉くんが“一カ月のお試し期間”を経て本当の彼氏になった所で手なんて出せやしない。相手は何せ未成年、高校生なのだ。私が犯罪者になってしまう。
 つまるところ、なぜか今泉くんにアプローチを受けた私は返事を保留中なのである。紹介をしてくれた後輩に対する申し訳なさもあり、断り切れなかった私はとりあえず一カ月友人から始めてみよう、と提案をした。そうすればすぐに私からは離れて行くだろうと思っての提案だった。だが、もう一カ月も半分以上を過ぎてしまった。そろそろちゃんと今後のことを考えなければならない。

「何で、今泉くんってさあ…」
「なんですか」
「いや、うん、いいや…」
「そうですか」
「気にならないの?」
さんが言いたくないなら、追究する資格は今の俺にはありませんから」

 今は、をやや強調して言ったように聞こえたのは気のせいか。こんな台詞を吐く高校生なんて私は知らない。少なくとも、私の高校生時代にクラスにこんなにも大人びた子はいなかった。みんな精神年齢が小学生のようだったのだ。今泉くんがやけに達観しているのか、私の精神年齢があの頃から全く変わっていないのか。
 いや、達観しているとか、大人びているというより、むしろ冷静に考えてみるとこれはかなりぐいぐい来られているのではないだろうかと思う。あまり多くを話すタイプではないが、その分ちょっとした言葉や行動にそれが表れている。特に最近顕著なのは、仕事終わりに待ち伏せされる回数が増えたことだ。それは今日のように職場だったり、アパートの前だったりと様々なのだが、とにかく以前にもまして私の前に出現する。私が電車通勤だと知っていてもロードバイクで現れ、それを折り畳んで一緒の電車に乗ってここから帰るのだ。そして私を送ると今泉くんはまたロードに乗って帰って行く。今日もそのつもりなのだろう、彼の傍には門に立てかけたロードが見えた。
 けれど多分、こういうことをされて私は心の底からは嫌がっていない。迎えに来ても今泉くんは不必要な会話はしないし、私の面白くない仕事の文句をや腹が立ったことを静かに聞いてくれる。その内容を高校生に理解しろというのは難しいかも知れないし、そこまでは求めていない。静かにただ聞いてくれるのだ。そして最後には決まって「お疲れさまでした」とか「明日も迎えに行きます」という今泉くんの言葉で私たちの短い逢瀬の時間は終わる。
 そういった何げない言葉に、私は救われている。お疲れ様とか、おかえりなさいとか、なんでもない日常の中の一言を欲していた。どんな格好でも、私を待っていてくれる存在を私は欲したのだ。

「今日も電車なんだけど…」
「大丈夫です」
「そっか」
「はい」

 そう言って、二人で私の職場を後にする。冷たい風に腕をさすると、すでに羽織っているストールの上から巻かれた今泉くんのマフラーを、「もっとちゃんと巻いて下さい」と巻き直されてしまう。

「薄手のストールの季節ももう終わりですよ」
「そ…うだ、ね……」

 さらりとそんなことをやってのける今泉くんに、私は思わず固まった。マフラーにはさっきまでの今泉くんの体温がまだ微かに残っており、やたらと私の心臓がうるさく鳴る。もう辺りもすっかり暗くなっていて分からないが、今の私の顔は間違いなくまっただ。隠すようにマフラーを鼻先まで押し上げて俯く。隣を見上げれば、整った横顔が少ない街灯の一つに照らされ、また消えた。
 どきどきする―――この感覚を知っている。心がふわふわと宙に浮いた気分になる―――これも知っている。そんなまさか、と否定し続けて来た。私みたいな二十を超えた女なんて、と。男子高校生が相手だなんて、と。こんなにも歳の差があって見ている世界も生活も日常も違うのに、成り立つはずがないと。それなのに、蓋をした隙間からじわじわと流れ込んで来るものがある。優しい言葉で蓋を開けろと脅しをかけられている気分だ。それは優しく、じわじわと真綿で首を閉めるように。ゆっくりと懐柔するように。そして引き寄せられるのだ、磁石のように。

「今泉くんは疲れないの?」
「何がですか?」
「わざわざここに…っていうのかな…私に合わせて帰るの」
「別に、無理に合わせているつもりはありません」

 やりたいからやっているんです、と言いきった。
 何それ、何だそれ。まるで本当に彼氏か何かの台詞じゃないか。有り得ない、十七、八の男の子が私に興味を持つなんて。大学生ですら見向きもしない私の一体どこが良いと言うのか。

さん、そろそろ“有り得ない”って言いたげな顔やめませんか」
「かっ顔!?」
「かなり分かりやすいです。…まあ、そういう所がいいんですけど」
「へっ、えっ!?」

 両手で頬を抑える。恥ずかしい。なんで考えていることをこんなにも見透かされてしまうのだろう。私は私でそんなに自分のことを話したがる性格ではないのに、一体どこを見て察しているのだろうか。顔に出しているつもりもなかった。そういう仮面は社会人になれば自然と身に着くからだ。それに私も私でどうしてどきどきしてしまうのだろう。今泉くんの言葉に逐一反応してしまう。これではどちらが年上なのか分からない。
 正しい大人なら、「私なんてやめておいた方がいい」とちゃんと冷たく突き放すのだろう。たとえ私たちがどれだけ清いお付き合いをした所で、どこかで噂に尾がつく。私は未成年を誑かした悪い大人になる。大人というのは非常に狡猾な生き物で、保身のためなら心にもないような言葉だって吐くことができる。
 だから、決定的な一言が今泉くんの口から出る前に阻止しなければならない。正しい大人であるために、間違えない選択をするために。
 それなのに悪魔は耳元で囁く。残った気持ちはどうするの、と。私の甘さに付け入るように、何の前触れもなく“その”一言は放たれた。

「俺は最初からさんを恋愛対象として見ていました」
「い、今泉くん、私は、」
「だから分かるんです。さんのことなら、分かりたいと思うんです」

 俺ではだめですか。そう言って足を止めると、一歩分私に詰め寄る。
 頭の中で鳴る警告音は赤い色。危険信号の証拠だ。何の危険なの、何が危険なの、大丈夫でしょう―――依然悪魔は囁き続ける。間違った選択肢を掴ませるため、今にも背中を押さんとしている。

さん、好きです」

 心臓がうるさい。拍動が全身に伝わる。息が苦しい。息が詰まったみたいだ。声を出すことを忘れたみたいに、ひくりと声帯が引き攣った。今泉くんから目を逸らせなくなった瞬間、それが最後だった。

「私も、です」

 認めざるを得ない。有り得ないと思っていた恋愛がとっくに成立していたことを。







(2014/10/26 Thanks...number7