さんとは、一つ年上だが中学からの知り合いで、偶然同じ高校に入学し、それから付き合っている。いつも笑顔を絶やさない人だと最初は思っていた。何があってもにこにこしていて、俺が落ち込んだ時にも微笑んでずっと傍にいてくれた。何も言わずに、項垂れる俺を抱きしめてくれたのだ。
 けれど、長く付き合えば付き合うほど、その笑みの違和感に気付く。本当に笑っている時、そうじゃない時の区別が、嫌でも分かるようになる。何かをひた隠しにして笑っている時、彼女はほんの少しだけ顔が下を向く。ずっと見ていなければ分からないような些細な彼女の癖だ。
 それに気付いていながらも、「何かありましたか」とは聞けなかった。たった一つの歳の差がこんなにも大きく感じる。ストレートに聞いた所でさんは答えてくれるような人ではないのだ。思うに、気持ちのコントロールが下手な人なのだろう。きっと誰にも知られないようにどこかで何かを発散しているのだろうが、一人で解決できるようなことばかりなのだろうか。
 というのも、ここ最近明らかにさんの様子がおかしいからだ。誰が見ても常にぼうっとしていて、話を聞いているようで聞いていない。手嶋さんと同じクラスだそうだが、授業中も集中しているのか何も考えていないのか分からないのだそうだ。

がおかしいことは分かってるわよ。でもどうしようもないじゃない、言わないんだもの、あの子」

 さんの友人も溜め息をつきながらそう言う。人に心配をかけたくない性格のさんは、何か重要な選択を迫られた時でも自分一人で決めてしまう。そうというのも、彼女の複雑な家庭環境にある。詳しくは聞けないが、あのいつも朗らかな笑顔を絶やさないさんからは想像できないどろどろとした事情があるらしい。誰にも相談できない環境が、今の無理をし過ぎるさんをつくってしまった。
 高校に進学すると共に、通えない距離でないにも拘らず、学校の斡旋するアパートに入り、一人暮らしを始めた。そしてその部屋に、さんはあまり人を入れさせたがらない。俺も、さんの友人でさえ入ったことがないのだと言う。その部屋の中に一体何があるのか、隠されているのか、さんの部屋を見ればわかるのだろうか。

「一つ下とは言え彼氏なんだから、のことちゃんと見てやってよね」

 私じゃどうにもならないの。教室の外からさんを眺めながら、また一つ溜め息をついた。こうして廊下でさんの友人と俺が話している事すら気付かないくらいぼうっとしている。そう言えば最近、目の下の隈が酷いようだった。眠れていないのだろうか。とりあえず今日、部活が終わるまで待っていてくれるよう伝言を頼み、俺も自分の教室に戻った。
 さんは優しい人だ。けれど人に優しくし過ぎて、自分を顧みることが疎かになっているのではないだろうか。知らない内に様々なものが積もり積もって、自分では処理しきれなくなっているに違いない。これまであんな様子のさんは見たことがないのだ。
 いや、一度だけある。何がきっかけだったのかは分からない。「大変だから早く来てくれ」とさんの担任に連絡を受けて向かった美術準備室では、さんが酷く取り乱していた。きっちりと整理されているはずの美術準備室はその面影もなく荒れ放題で、その隅っこでさんは体を抱えて座り込んでいた。震えるさんに声をかけるとびくりと肩を揺らし、ゆっくりと顔を上げた。怯えたような目が俺を捉えると、徐々に緊張は和らいだのか俺に手を伸ばす。
 けれど、あの時でさえさんは泣いていなかった。何か怖い思いをしただろうに、「大丈夫、もう大丈夫だから」と言ってただただ俺にしがみついたのだ。俺にできることと言えば、そんなさんの背中を撫でることくらいで、根本的にさんの問題を解決することのできない自分が情けなくて、悔しくて、腹が立った。
 今度こそは、何とかしたい。さんがもうあんな怯えた目をしなくていいように、震えなくていいように。そして何より、無理して笑うことがないように。



 そう決めた矢先のことだった。土日を挟んだ月曜日、さんは学校を無断欠席した。決して校則を破るような人間でない彼女がそんなことをするとは考えられず、その日は部活が終わるとすぐのさんの家へ向かった。もう真っ暗になってしまっているが、寄らずにはいられなかった。
 場所だけは知っているものの、一度も入ったことのないさんの部屋。アパートの入口までは送って行ったことは何度もあるが、そこから先へは足を踏み入れたことがない。不安は大きくなるばかりだ。ちゃんとこのアパートにいるのだろうか。実家に連れ戻されているなんてことはないだろうか。
 オートロックのアパートのエントランスに立ち、さんの部屋のインターホンを鳴らす。しかし返事はない。待てども待てども、応答する様子は全くない。すると、中から五十代くらいの女性が出て来た。どうやらここの管理人らしく、監視カメラから俺を見てピンと来たようだ。「さんと同じ学校の子よね」と制服を見て言う。

「夕方、もう一人女の子が来てくれたんだけど、さん出なかったのよね。もし倒れたりしていても心配だから、様子見て来てあげてくれるかしら」

 恐らくあのさんの友人だろう。朝のホームルームが終わると、一時間目の授業までの短い間に俺の教室まで来て「が来ない!」と血相を変えて言いに来たのだ。
 管理人の女性がさんの部屋のノックをしても、中からは物音一つしない。とうとうマスターキーでさんの部屋を開ける。そこで管理人は「あとはよろしくね」と言って管理人室に戻って行ってしまった。何度も目撃されており、何となく俺とさんの関係を察しているのだろうが、それは管理人としてどうなのか。ここの危機管理に不安を覚えつつも、こうする以外には今、さんの部屋に入る手立てはない。もう一度ノックし、反応がないことを確認するとそっとドアを開けた。中に入り、さん、と呼びかけるが返事はない。更に中へ入る。

さん…?」

 きっと、元は綺麗なワンルームマンションタイプの部屋。綺麗好きでいつも教室のロッカーや机の中も整理整頓がきちんとされているというさん。けれど、目の前に広がっていたのは“あの時”の美術準備室と同じだった。物と言う物が散乱し、どこを歩けばいいか分からない。教科書、ノート、服、鞄、あらゆるものが部屋を埋め尽くしており、散らかっているどころの話ではなかった。きっとこれは、今のさんの心の中だ。荒れ放題に荒れて、どこから手をつければいいのか分からない。

さん!」

 そんな荒れた部屋の真ん中で、さんは横たわっていた。下に落ちている物など気にせず、俺は自分の鞄も放り出してさんに駆け寄った。すぐ傍に膝をつくと、たった今気付いたらしく、僅かに首を動かした。

「…しゅん、すけ…くん」
さん、あの、オレ…」

 虚ろな目が俺の姿を映す。真っ黒な瞳には、まるで感情が籠っていないように見えた。俺の名前を呼ぶ声も掠れていて痛々しい。一体いつからこんな状態だったのだろうか。少なくとも、金曜日にはこんな表情はしていなかった。やはり今までのように覇気がある訳ではなかったが、ここまで酷くはなかった。

「しゅんすけくん、軽蔑、した?」

 その言葉の後、さんの目から涙が一筋流れる。
 さんの泣いた所なんて一度も見たことがなかった。俺がレースで思ったような結果を出せなかった時、伸び悩んで荒れていた時、御堂筋に負けた時、どんな時も「悔しいのは俊輔くんだから」と優しい笑みを浮かべて全てを受け止めてくれたのがさんだ。そのさんが今、自分自身を抱えきれなくなってしまっている。そんな風に見えた。ずっと押し留めていた心の底に積もった何かが溢れ出し、空っぽになったかのようだ。大丈夫ですか、なんて聞けない。大丈夫じゃないことなんて一目瞭然だ。じゃあ、なんて声をかければいい。俺は何をするためにここに来たんだ。さんに会えたとして、どうするつもりだったんだ。
 ゆるゆると手を伸ばしたさんは、俺の頬に触れた。その手のひらは酷く冷たい。俺の知っているさんの手はいつだって温かくて優しい。けれど、まるで血が通っていないかのように冷たく、血色も悪い。もしや、この三日間ずっとこの状態だったのだろうか。
 俺の頬に触れているさんの手に自分の手を重ねた。自分の体温をさんに分け与えるように、ぎゅっと握った。すると、益々さんの両目からは涙が溢れ出す。何かを言おうとしているのか、唇が震えているが言葉は出て来ない。何度も瞬きを繰り返した後、弱々しい声でさんは言う。

「きらいにならないで」

 震える肩、こちらをじっと見つめる目、依然冷たいままの手。全て、手離せるものか。このまま見放せるものか。さんのこんな弱っている姿を見て、捨てられるものか。
 ギリ、と奥歯を噛む。どうしてこんなになる前にどうにかできなかったのだろう。さんがこんなにぼろぼろになってしまう前に、さんを掬い上げることはできなかったのだろうか。何度も好きだと言って抱き締めてくれたさんにかける言葉が見つからない。今、さんが俺に求めているものが分からない。どうすればさんは笑ってくれるのだろうか。ようやく気付く、さんと言う存在の大きさ。いつも俺はさんに支えられてばかりいた。俺がさんにこれまで何かしてあげられたことがあっただろうか。さんと出会ってからのことを思い出すが、一つも思いつかない。
 俺は、さんに甘えていたんだと、今更気付かされる。

さん、好きです」
「俊輔くん…」
「好きです」

 それしか言えない自分に腹が立つ。馬鹿の一つ覚えみたいに「好きです」としか言えない。だから傍に居ますだとか、さんを離しませんだとか、もっと気の利いた言葉はこの世にたくさんあるはずなのに、それ以外の言葉が出て来ない。さんの片方の手を両手で握り締め、俯きながら祈るように何度も呟く。好きです、と。
 さんが必要なんです、どんなさんでも俺にはさんが必要なんです。俺を優しく包み込んでくれるさんも、時々冗談を言うさんも、少しそそっかしい所も、俺だけに向けてくれる特別な笑顔も、全部大切なんです。けれど今のさんも好きな事に変わりはないんです。こんなにも弱い所も含めて全部さんなら、俺はそんなさんをもっと必要とします。俺にもさんを支えさせて下さい―――頭の中ではこんなにもたくさんの言葉が駆け巡るのに、口から出て来るのは同じ言葉の繰り返し。
 それなのに、そのたった四文字を繰り返し聞いたさんは、涙を流しながらも最後は少しだけ笑った。それを見て、俺の目からも涙が流れて来る。
 こんな言葉で笑ってくれるのなら、何度でも言いたい。さん、あなたが好きですと。








2014/10/14 『泣きたい。』さまへ
Thanks...はこ
Music...アンブレラ/椿屋四重奏