大きな舞台に立つことが、の小さい頃からの夢だった。とても抽象的ではあるが、とにかく大きな舞台だ。日本の音大を出て、海外留学の推薦を受け、は今日、その夢の舞台に立つ。
 ようやくだ、と舞台袖で高鳴る胸。ここに来るまで本当に色々なことがあった。印象深かったことや感動したこと、かけがえのない思い出となったこともある。けれどその中でも最もの記憶に深く住み着いて離れないのは高校時代のことだ。声楽一筋で走って来たの生活に、ただ一つ違う彩りを落とした人物―――巻島裕介である。自分の気持ちの欠片すら伝えられなかった相手なのに、どこのどんなに素敵な人と出会おうと、巻島を忘れられなかった。巻島がいなければもしかするとここにいなかったかも知れないのだ。

 は幼い頃から声楽をしていたとは言え、いつも自信がなかった。そんなの背中を押したのが巻島なのである。「頂点をとれ」―――その言葉に何度励まされただろう。辛くなる度、苦しくなる度、巻島の言葉と声と顔を思い出していた。本当は海外への推薦も受けないつもりだった。けれど迷った時に思い浮かぶのもいつも巻島の言葉だった。巻島も自分よりずっと若い年齢で、高校を途中で去ってまで海を越えた。それなら私も、と、は非常に単純だった。それに、日本で優勝したなら次は世界を目指したいとも思った。全て記憶の中にある巻島が影響しているのだ。

 前の出場者の発表が終わり、拍手が止むととうとうの名前が呼ばれる。鮮やかなエメラルドグリーンのドレスを纏ったは、深い緑のヒールの踵を鳴らして舞台の中央に立つ。
 鳴らせ、身体を。歌え、身体で。喉だけではない、身体全てが楽器なのだ。それを自在に操る難しさ、楽しさ。初めて立つ海外の舞台は完全なるアウェーだ。けれど緊張とは違う楽しさがあった。日本にいた時よりずっと近くに巻島がいるような気がするのだ。同じヨーロッパだからだろうか。歌に集中しようとするのに、頭の中は巻島でいっぱいになる。この声が巻島に届けばいいのに―――未だ燻る思いが絶望と希望を行き来した。



*



 ひょんなことから、巻島は高校時代の同級生、がヨーロッパ留学をしたことを知った。今も時折連絡をとっている金城が「もヨーロッパの音大へ行った」となぜか報告して来たのだ。「行ったらしい」ではなく「行った」と断言した辺り、間違いない情報なのだろう。どういう経由で知ったのか聞いてみれば、何でも金城とは連絡を取り合っているのだという。驚愕の事実に思わず携帯を落としそうになる。
 そういう訳で、以来金城からは定期的に情報が送られて来るようになった。聞けば、今はドイツに留学しているらしい。

 もしかして、ドイツで声楽のコンクールに出ていたりしないだろうか―――そう思いネット検索をしたのが、今日に至る始まりだ。気付けばドイツ行きの飛行機やらドイツのホテルを押さえていた。コンクールのチラシの出場者欄にはの名前も確かにあり、金城から聞いたのと同じ大学所属となっている。
 今行かなくて、いつ行くと言うのだ。たとえ今、の隣に誰か知らない男がいたとしても構わない。彼女が舞台に立つ姿を一目見るだけでいいのだ。高校時代、一度も見ることのできなかった歌っているをこの目に映したい。

 念願叶って見ることのできた舞台に立つ彼女は、驚くほど美しかった。何が、と聞かれれば絞ることができない。何もかも、全てが美しかったのだ。高校時代の面影は僅かに残ってはいるが、確かに大人になっている。そのドレス姿には思わずどきりとした
 そして、ようやく聴くことのできたの歌声に、身体も心もが震える。彼女の歌声はこんなにも美しかったのかと、少なからず動揺もした。高校時代には叶わなかった、の歌声を聴くこと。間違いなく彼女は今の方が素晴らしい歌声をしているのだろう。それを客席の片隅で聴くことのできたことに、幸福すら感じた。
 歌いきったは、やり切ったとでも言いたげな晴れ晴れとした笑顔で、美しくドレスを翻して舞台の上から去った。

 そんなの結果は、三位入賞。しかし初めてのドイツでのコンクールにしては三位入賞は素晴らしいことなのではないだろうか。…いや、自分だったら満足しない。いつだって一位でいたい。頂点を取りたい。表彰式では大人になった微笑みを浮かべていたが、きっと心の中は悔しさでいっぱいに違いない。

 自分は、彼女にどんな言葉をかければいいのだろうか。



*



 コンクールの結果は三位だった。胸の中は悔しさでいっぱいだった。優勝の二文字が欲しかった。表彰式で真ん中に立ちたかった。三位の自分にインタビューを求められても、悔しさは募るばかり。今回の悔しさをバネに次回がんばります、としか言えず、作り笑顔が段々引き攣って行くのが分かった。
 ギリギリと首を締め付けられるような感覚。そんな暗い気持ちで会場の関係者入口を出る。は楽譜だけは荷物の中に仕舞わず、胸に抱きしめたままだった。

 悔しい、悔しい、悔しい。涙が溢れそうになりながら、一歩踏み出すと、それ以上は足が動かない。全力を出した。これまでで最高の声が出た、歌えた。でも自分の歌は優勝には値しなかった。
 ぐしゃり。の手が楽譜を握り締める。

「三位、惜しかったっショ」

 暫く聞いていなかった母国の言葉が、突然耳に入って来る。しかも、それより長く耳にしていない人物の声。もう何年も、記憶の中でだけ繰り返し聞いていた声。
 ぎりぎりで堪えていた涙が、顔を上げた瞬間に溢れ出す。大粒のそれが、頬を伝って楽譜に落ちた。

 巻島だ。あの頃と、記憶の中と変わらない鮮やかな色の髪。変わったのはあの頃より大人になった顔と、少しだけ低くなった声。正装姿で白い薔薇の花束を片手に、困ったように眉を下げて苦笑いする顔。
 ほら、と肩に置いていた花束を巻島はに差し出す。耳に心地の良い中音程の声。まだ消えていなかったぼんやりとした淡い恋の灯りが、再び鮮明さを取り戻す。
 その瞬間、譜面もプレゼントされたばかりの花束も手放し、どちからともなく抱き合った。きつく、強く、息が止まるほどに。しわになってしまうことなんて分かっているのに、は巻島の背中に回した手に力を込めた。巻島もまた、長い腕でを閉じ込め、の髪に鼻を埋める。

「次こそ取れよ、頂点」

 ずっと聞きたかった声、欲しかった言葉、見つめられたかった瞳。の望んだものが今、目の前にある。
 やっと泣けた。やっと、この手が届いた。








(2014/09/30 newsong/tacica)