友達にも話していないここだけの話だが、私には好きな人がいた。二年、三年と同じクラスだった人だ。どういう因果か、奇跡と言うのか、運命と言うのか、何度席替えをしても前か後ろか隣にはその人がいた。けれど別段、私と彼は友人と言うほど互いのことを知っている訳ではなく、挨拶や前後左右の席と言うことで多少の会話をしたくらいだ。よく部活のミーティングとやらにも言っていたし、群れることを好まなさそうな彼は、二年の時も三年の時も、周囲と一線を引いているような感じがしていた。
 彼―――巻島裕介は何でも、県内では強いと言われている自転車競技部のレギュラーらしいが、その細い体躯からは運動部だと言うこと自体が想像ができなかった。そんな、ただのクラスメートである私が初めて彼に声を掛けられたのは、二年の梅雨前だったと思う。机の上に広げた大量の楽譜への強い視線を感じて探ってみれば、その元は彼だった。それ、歌の、か?とぎこちなく聞かれ、うん、と頷くと無言でひらりと一枚を手に取った。

 彼に必死になっている物があるように、私にもまた必死になっているものがあった。音大の声楽科へ行くことが私の昔からの目標で、中学も部活にも入らずずっと声楽のレッスンを受けて来た。そういう私は、密かに部活と言うものに憧れを抱いていたりもした。彼が部活のメンバーと話している所を見掛けた時は、教室では見ないような表情をしていたし、多分、それを見た瞬間に恋をしたのだと思う。

 楽譜を読めるのか読めないのかは分からないが、そのぺらい一枚を私に返し、真っ直ぐに私を見ながら彼は更に言った。合唱部なのかと。当然、首を振る。そして何を思ったか、私は「入ってみたい、けど」と呟いていた。その消えそうな一言も拾った彼の耳は一体なんなのか。「入れば良いっショ」と独特の口調で軽く言って見せた。かなり軽い口調だった。簡単に言ってのけた。部活に割く時間を捨て、ただひたすらにレッスンに通う。それが苦だった訳じゃない。けれど毎年テレビで見ていたNコンに、何よりも羨望を感じていた。けれどそれよりも、先輩がいて、同級生がいて、後輩がいて、あの大勢で作り上げる音に、声に、一体感に、私はたった一人で舞台に立つ孤独をより感じていた。

 部活ってのも悪くねェ。授業開始のチャイムに被せるように最後に彼は言った。そのたった一言に、私は強く背中を押された気がした。そしてその日の内に合唱部の扉を叩き、入部届を提出。当然、親には事後報告したのだから怒られた。は音大のために声楽をしているのでしょう、それを何今更合唱部なんて言い出すの、と。けれど決して音大コースのレッスンを疎かにしないことを条件に、結局親を説き伏せた。

 合唱部に入部して数日、どきどきしながら彼にようやく入部したことを報告した。すると、がんばれよ、と言ってくれた。どうせなら頂点取って来い、と。たったそれだけ。私と彼は結局、同級生以上の関係に発展することはなかった。三年でも同じクラスになり、また隣の席になった時、「せ、せっかくだしアドレス交換しない?」なん言ってみたりもしたが、結局メールなんて一度もすることはなかった。挨拶をする、少しだけ話す。授業が終われば「今日も 部活?」「あぁ」「私も」「そうか」という会話だけが私たちの間で毎日行われる会話となっていた。

 けれど、私の淡い恋に終止符を打たれるのは突然だった。三年の九月、彼の所属する自転車競技部は悲願の八月インターハイ優勝を果たし、けれどその後すぐに退部届を出して学校を去った。何も知らなかった。イギリスに行ってしまうことなんて、何も知らなかった。そりゃあそうだ、私はただの同級生で、クラスメートで、それ以上でもそれ以下でもなかった。友人にすらなれなかったクラスメートAだ。

 私たち合唱部は県予選を突破し、ブロック予選まで上り詰めた。県内ではうちの合唱部も強豪と言われているけれど、全国へ行けるかどうかは分からない。合唱部もブロック予選となれば更にレベルが上がる激戦となる。だから、言おうと思っていた。九月の関東ブロック予選、良かったら観に来て欲しいと。もし良ければ一度でいいから観に来て欲しいと。でもそれを言うことなく、私の恋は終わった。

 合唱部に入部したことを伝えた時、彼はがんばれと言ってくれた。頂点を取って来いと言ってくれた。その時くれた言葉と表情が、今もまだ私の心の奥底から浮き上がって来ることがある。練習の時だけはそれを振り切るけれど、どうしても緊張が切れると思い出し、何度も何度でも泣いてしまう。そんな毎日の中で部活もレッスンも必死にやり遂げ、私たち合唱部も自転車競技部と同じ全国優勝を果たした。頂点を取って来いと言う彼の言葉通りに、私たちは日本で一番だと認められたのだ。
できることなら、この報告を一番に彼にしたかった。「合唱部の頂点取ったよ」と、初めてのメールで。でももう彼はいない。

 彼は知らないだろう、何気なく言ったであろう一言が、私の胸をこんなにも掻き乱すことを。けれど、一つだけ願って良いだろうか。彼の二年半の高校生活の中、その殆どを彩るものが部活だったとしても、片隅に私と言う色が在ったことを。








(2014/07/31 From the Gekko/tacica)